見えないものを証明してみせよ
Twitterに質問箱というのを設置している。
まあ寄せられる質問の大半はおそらく質問箱側が用意したであろう、botみたいなものなので、答えていない。
でも稀に寄せられる、フォロワーからの質問には全部答えるようにしている。
その中に「システマには試合がない利点がある反面、定量化できないという難点があるのでは?」という質問が寄せられた。文面も丁寧だし、個人的に気にしている問題でもあったので、暑苦しいんじゃないかってくらいの返答になってしまった。次に返答をそのままコピペ。
「これは私も切実な問題として捉えています。システマの守備範囲は広範なので、実力など測りようがありません。そのため評価は主観に大きく左右され「うまそうな人」「すごそうな人」が高く評価されがちな傾向があります。なので私は「総練習時間」と「ミカエルとの練習時間」という極めて単純に数値化できる指標を用いています。どれだけ年数が長くても、月2回とかでは総練習時間は短くなります。またどれだけたくさん練習していても、創始者であるミカエルとの練習時間が短ければ、その人が理解するシステマの信憑性は低くなると考えます。伝言ゲームではスタート地点から遠ざかるほど、信憑性が低下するのと同じです。
あと、対外的なプレゼンテーションとしては、私自身がメジャーな格闘技の試合(私の場合はBJJ)に出て、実績を出すようにしています。
私のクラスに来てくれている人からは、「生きるのが楽になった」「ストレスに強くなった」といった感想が数多く寄せられています。でもそれらはプラシーボや、私への気配りによる善意の嘘である可能性も大いにあります。なので客観的なデータとして信頼することはできません。「感想」という主観的な評価よりも何らかの形で数値化できるデータの方が、信頼性としては高くなります。その点「総練習時間」や「試合実績」は数字で残せるので、信頼性としてはまだマシであると言えます。
私は「神秘のベール」で守られているように見えて、実際にはその内側にはなんにもなかった、という残念な事例をたくさん見てきました。でもシステマはそうではありません。そのことを示すには客観的に評価できる方法で、システマの有効性を証明し続けなくてはいけないと考えています。それがシステマを生み出し、私を育ててくれたミカエルへのせめてもの恩返しとなるのではないかと思うのです。」
とか言いながら、別にBJJで世界選手権とったってわけでもないし、そもそも紫帯になったばかりなので、大した結果を出しているわけではない。さらにこの結果を出すために週5回は柔術のジムに行っているから、純粋にシステマの成果とはいえない。柔術のルールやセオリー、技を身体に染み込ませるにはかなりの時間がかかるのだ。だからお世話になっているパトスタジオの中村大輔先生、西林浩平先生、たまに出稽古でお世話になるmewe山崎剛先生、パラエストラ東京中井祐樹先生らのお陰によるところが大である。ただ柔術の練習の中でシステマはずいぶん、僕を助けてくれているのは確かだ。40過ぎて20代の若者と取っ組み合って、大きな怪我もなく続けていられるのも、そもそも週5回も練習できるのも、システマで培われた身体のお陰だと思う。
でも、世間の人はそんな背景なんて見ていない。僕が勝てば「システマの北川さんが柔術の試合で勝った」という評価になる。
すると「システマってすごいんだねえ」となる。
わざわざ試合なんて出なくたって、格闘家にシステマの技が通じたらそれで良いのでは?
という意見もあるだろう。実際に自ら主催する稽古会に来てくれた格闘家に技をかけて、「私の技がプロの格闘家にも通じた」と喧伝する人も少なくない。ただそれらはだいたい相手が技を受けてくれているのである。真摯な格闘家ほど、謙虚だ。だから何かを学ぼうとして、技を「受けてくれる」。柔道であれ柔術であれ、上手い人ほど技の受けもうまい。むやみな抵抗と、有機的な受けの区別がついている。だからむやみに抵抗するよりもちゃんと受けた方が、トクであることを知っている。一方でむやみな抵抗をしてくる人は、その区別がついてない程度のレベルなので、制圧したところでなんの自慢にもならない。だからいずれにしても、実績にはならない。
格闘技の本当の姿を知るには、相手のフィールドに飛び込まなくてはいけないのだ。
システマは元ピーマンズスタンダードの南川さんのお陰で、ぐっと知名度があがった。誤解も増えたという指摘もあるけれども、どんな形であれば知名度が上がったのはとても喜ばしいことだ。
その知名度を活用するかしないかは、私たちインストラクターの次第なんじゃないかと思う。
システマを証明する。それも目に見える形で。数値化できるならさらに良い。
ここで思い起こすのが空手家の故横山和正師範だ。
横山師とは生前、何度かお話をさせていただく機会があった。横山師といえば、「瞬撃手」と呼ばれた目にもとまらぬ速い動きや、ヌンチャクや鎖鎌の卓抜したパフォーマンスで有名だったので、失礼ながらお会いするまでは「パフォーマンスのすごい先生」という程度の認識だった。
物質主義、功利主義のアメリカで空手を広めるうえでの苦労話など、興味深く伺ったのだけど、中でも印象的だったのが、パフォーマンスを行う理由だ。
「沖縄空手の素晴らしさは、普通の人の目に見えない。だから沖縄空手の素晴らしさを伝えるには、誰にでも見える形で表現しないといけない。そのために自分は演武する。」
この考え方には、目から鱗が落ちた。
花拳繍腿という言葉があるように、「見栄えのする動き=見掛け倒し」というイメージが強い。でも横山師はあえて、誰にもできない演武をすることで、「何かがそこにあるぞ」と、皆に見せていたのだ。
見えないものをどう表現するのか。というのは、システマに限らず、実力を定量化できない分野で生きる人々全ての課題なのかも知れない。その最たる例が、「優秀なSEのジレンマ」だ。システムは問題が起こらないのが最上である。だからメンテナンスを担うSEが優秀であるほど、システムエラーが起こらない。全て未然に防がれてしまうため何も問題が起こることはなく、平穏な日々が過ぎていく。
すると傍からは、まるで仕事をしていないかのように見えてしまう。「うちのシステムはめったにエラーが起こらないんだから、保守担当のSEなんていらなくね?」と、クビになってしまうのである。すると途端にエラーが頻発し、まともな業務ができなくなる。慌てて呼び戻そうとしても後の祭り。「あんなわからんちんの職場に戻ってたまるか」とへそを曲げているか、他の企業にずっと高待遇で再就職したりしているかだ。
このSEはどちらかと言えば極端な例だといえる。他にも数値化しにくい分野は数多くあるだろう。会社員なら給料が上がらないとか、出世できないとか、そういう問題が起こるし、横山師なら、沖縄空手の素晴らしさを伝えられないということになる。
我々システマーならどうか。
システマには試合がない。試合があると、えてして「試合に勝つための技術」ばかりが発達し、それ以外のものはどんどん廃れていく。そしてルールによる縛りが強くなるほど、リーチが長く体重の多い者が有利になる。また身体の構造よりもルールに合わせた身体の使い方になるから、身体を壊す。またエゴや闘争心を駆り立て、人としての正常なメンタリティから外れてしまうということもある。そういう競技化のデメリットは、今更いうまでもなくこれまで多くの人が指摘してきたとおりだ。だからシステマには試合がない。
ただ、「試合がない」ことも別に良いことばかりではない。試合がないなら無いなりのデメリットも同じくらいある。最たるものは、目に見えない年功序列やヒエラルキーができてしまうこと。特に練習してないのに古株というだけで幅を利かせる人が出てきたり、慢心しても鼻をへし折られる機会がなかったりすることだ。試合やスパーリングがあれば、慢心するばかりで実力の伴わない先輩はボコボコにされてしまうだけだ。でも試合がないと、それができない。そのため増長し放題、慢心し放題なのである。日本型企業が停滞するのも、これと無関係ではないだろう。
システマは守備範囲が広範なので、実力を評価することはできない。マーシャルアーツはからきしでも、システマを学ぶことで治療がうまくなったり、ピアノがうまくなったり、それまで寝たきりだった人が立ち上がったりするのだ。彼らを十把一絡げに同列にして語ることはできない。
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