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「思考」と「迷い」、あるいは思考を止める簡単な方法
あまり深く考えてはいけない。
だから考えない。本当に思考を止めてしまう。
それは最近流行りのある一言で片付けられてしまう。
「反知性主義」
インテリとか受験エリートがこんだけ世の中グダグダにしたんだから、考えるのやめようぜ、もっとフィーリングで自分に正直に生きようぜ、そのままの自分を愛して人生楽しもうぜ、ウェーイ。
要はそういうことじゃないの。反知性主義って。よく分からないけど。
で、システマでもしばしば言われる「考えるな」。
果たしてそうだろうか。いやそんなことないだろう。ない知恵を絞りに絞って、考え抜くこともトレーニングのうちだ。
ではなぜ「考えるな」という言葉が出てくるのか。
それは考えてるのではなく、迷っているからだ。
行こうかやめようか、自分にできるかできないか。そう迷っている。だから動きに迷いがでて方向性が定まらず、結局動きも精彩を欠く。それは建設的な「思考」とは違う。迷うのは仕方がない。人間だもの。それよりも「考えてはいけない」と言われて、はいそうですかと、思考を止めてしまうことの方がずっとまずい。
では思考とはなにか。思考とは、点と点を線でつなぐ作業と言える。知識や経験といった点を別の点と繋いでいく。ロジックの回路を作っていく。
だから点そのものがちょっとしかなかったら、あるいはすでに繋ぎ尽くしてしまっていたら、新たにつなぐことができなくなる。そう言う時に必要なのは、点を増やすことだ。体を動かし、データを蓄積するのである。
データの蓄積とは、受け身になって自分に降りかかる情報に対して、自分をオープンにすることで、効率が上がる。ここでは解釈や分析は必要ない。だけど人は往々にして、自分の見たいものしか見ないし、聞きたいことしか聞かない。自分の固定観念や道徳観、あるいは好みに照らして許せるものは受け入れ、反するもの、揺るがすものは無意識のうちにフィルタリングする。
つまり恐怖心によって情報が絞られ、制限されてしまうのである。だからありのままの世界を観察することはとても難しい。これもまた思考が持つ弊害の一つと言えるだろう。恐怖心が原動力となった思考は、迷いやフィルタリングとして自らの認識や動きを狂わせてしまうのだ。
これを防ぐ手立ての一つとして、思考を止めてしまうやり方がある。
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