【第十三歩】「unknown」からの「アズミハルコは行方不明」、そして「BU・SU」の巻
ドラマ「unknown」とは何だったのか?
「unknown」が終了して、1ヶ月以上経過した。
一応、感想を書こうと思ったのだが、何をどう書けばと思いながら、結局は何も思いつかず…。
最終的に『「unknown」は「unknown」のままにしておこう』というのが、今のところの結論である。
初回からまったくこのドラマにハマりきれず、犯人は誰かがやや気にはなったが、最終回までハマれないまま終了してしまった。
良かった点はといえば、高畑充希のウェディングドレス姿が見られたことくらいである。
ハマりきれなかった理由はいくつかあるだろう。
思いつくままに書いてみる。
・シリアスなのか、コメディーなのかが曖昧
・吸血鬼にまったく興味なし
・登場人物が偶然に出会いすぎ
・話数が進むにつれ、犯人誰でもよくないか?と感じてきた
・ドラマとは直接関係ないが、現実に奇怪な殺人事件があったりして、地上波TVではそれを扱う「報道ステーション」がドラマ終了後すぐにはじまる
最近は、TVあるいは、動画配信サービスなどで、ドラマの需要が多くなったらしく、以前より多くの作品が制作されているらしい。
そういう状況であるから、より話題を集めるためには、いろいろな要素を詰め込む必要があるのだろう。
「unknown」はそういうドラマの典型であった。
だが、ワタシのような古い人間(1970年生まれの53歳)には、どこが面白いのかわからなかった。
思えば、「にじいろカルテ」もワタシにはまったくハマらなかった。
おそらく、ワタシはテレ朝と相性がよくない。
・・・そう言い聞かせている。
映画「アズミハルコは行方不明」を再び観る
今回は2016年公開の映画「アズミハルコは行方不明」について、書いてみたい。
数年前に一度動画配信で観てはいたが、最近になってブルーレイ版を購入したので、再度観た。
(これよりネタバレあり)
正直言って、以前見たときにはあまりよくわからない「若者ノリ」の映画だと思っていた。
しかし、思いのほか、メッセージ性が濃い映画だということがわかった。
内容としては・・・
・地方のアラサー女子
・地方の二十歳女子
・地方の女子高生
・バンクシー(グラフィティ)
・地方創生
これらの要素が入り乱れて、意味不明という感じの映画になっている。
高畑充希自身が舞台挨拶で「意味わかんない→でも最高」と言っているくらいなのである。
ワタシも今回再度観るまで、よくわからない映画だと思っていたが、観た後は、大きく印象が変わった。
おそらく、この映画が言いたいことの大部分は理解できた(と思う)。
では、この映画が「わかりにくい」のはなぜか?
そのわからなさの大きな部分は、後半にあったように思う。
特に、都会から離れた「地方」にまったく縁のない東京や首都圏エリアに住む人ならば、まったくわからないはずだ。
「地方」と「バンクシー」の取り扱い
いちばんわかりにくいのが、グラフィティを地方創生の起爆剤にするという部分である。
このことを理解するには、「地方」をわずかでも知っている必要がある。
ワタシは、最初観たときには、全く理解不能だった。
というか、この部分をスルーしていた。
だが、今回観て、当事者的に理解した。
(個人的に、「地方」に関わる仕事を経過したからだろう…)
十分に「ありえる」話だったからだ。
映画では、後半、結構畳み掛けるように展開するので、置いてけぼりになってしまうのは無理もなく、「なんだかわからない」要因になっているだろう。
また、権利の問題からか、ユキオと学が影響を受けるDVDが「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ」であることや、それがバンクシーの監督作品という説明が一切出てこない。
非常に重要なことなのだが、これもこの映画を「?」にしている要因でもある。
原作本も一応読んだが、こちらにはこの固有名詞の記載がある。
余談ながら、ワタシの知るとある地方では、とある公共物に本物のバンクシーによるものと思われるグラフィティが突如現れ、普段ならば落書きとして消されるはずのものが、一転して、観光名所として利用できないかと議論されたりしていた。
ということで、この映画のようなことは非常に現実的ともいえるのである。
フラッグを燃やすということ
「アズミハルコは行方不明」をあらすじ的に要約してしまえば、地方の鬱屈とした若者たちが、グラフィティで革命を起こそうとするが、あえなく頓挫するという話ということになる。
その表現が、原作から映画化されるにあたり、いくつかの要素を抽象化、匿名化しすぎて、映画としては、わかりにくくなっている。
おやじ狩りの女子高生グループに関しては、特に意味不明で映画だけでは描かれていないと感じ、原作本を読めば多少補完されるものの、やはり理解しがたい。
映画では、なくてもよかったとさえ思う。
そうは言いつつも、ラストで「愛おしい」シーンが現れる。
愛菜(高畑充希)がユキオ(仲野太賀)と学(葉山奨之)が作った「レジャーランド」のパブリック・アートをぶっ壊すシーン。
最後に愛菜は大きく掲げられたフラッグに火をつける。
その炎を見つめる愛菜…。
正しい表現かどうかはわかりかねるが、これこそ「カタルシス」なのだと思えた。
このシーンを観て、ワタシの敬愛する映画「BU・SU」(監督;市川準)でのラスト、キャンプファイアーの「炎」のシーンに近いものを感じた。
映画「BU・SU」を再び観る
1987年公開、富田靖子主演、市川準監督作品「BU・SU」。
この映画はワタシにとっての「青春映画ベストワン」なのだが、DVDは廃盤で、中古市場ではプレミア価格がついている。
動画配信も現状なく、視聴可能なのは、DVDレンタルのみとなっている。
数年前に久しぶりにそのDVDレンタルで視聴したのであるが、今回この文章を書くためツタヤディスカスで再度レンタルした。
(これよりネタバレあり)
冒頭、麦子(富田靖子)田舎から東京へ向かうシーン。
電車の車窓らしき風景は、のどかな風景から、都会の風景へ転じる。
同時に、何らかの事情で、麦子が東京へ行くことも語られるが、短いカットのみで説明される。
行き交う東京の人々、風景。
麦子は、芸者の卵として、母親がかつていた神楽坂の店に預けられる。
麦子は、転校した高校での文化祭で、歌舞伎(文楽?)の「八百屋のお七」を演ずることになる。
途中までうまくいっていた舞台は、ちょっとしたことで大失敗し、そのまま終了となる。
その後、ステージでは同校出身の有名歌手の出番が待っていた。
ボクシング部の津田(高嶋政宏)は、ごったがえす会場内でうずくまる麦子を助け、校庭に連れ出す。
そこには、文化祭の最後に使用されるであろうキャンプファイヤー用に準備された木材が積み上げられていた。
津田は、麦子に火の付いたランタンを手渡すと、麦子はその木材へ向けて放り投げた。
またたく間に木材へ火が付き、大きく炎が燃え上がった。
その炎を観る麦子…。
「炎」=カタルシス
「アズミハルコは行方不明」が2010年代の「青春映画」ならば、「BU・SU」は1980年代の「青春映画」である。
完成度からいえば、「アズミハルコが行方不明」は「BU・SU」に比較できるほど高くはない。
しかし、年代を超えて持っている若者の「モヤモヤ」した感情を表現した映画という点では、同列にしてもいいと思う。
ワタシは映画の中で「炎」を見せられると、自動的に「カタルシス」と感じてしまうのだろうか?
そういう自責の念も脳裏をよぎるものの、「アズミハルコは行方不明」での「炎」越しの愛菜(高畑充希)が、「BU・SU」での麦子(富田靖子)に一瞬見えてしまった。
それは、DVDを見直したことによって、その感覚は正しかったことが確認できた。
これもまた、ひとつの「高畑充希をめぐる冒険」なのだ。
(本テキストは、ワタシが書いている「Yahoo検索(旧Yahoo映画)」の「アズミハルコは行方不明」のレヴューのテキストを引用しつつ、大幅に加筆したものです)
参考リンク
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