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第七章 中受地獄(白石真央)(15)

    *

 約六年半後。

 三月二十九日、私は私鉄のとある駅のホームに降り立っていた。
 結局中学のあいだは、ずっと鎌倉のおじいちゃんの家から公立中学に通った。おじいちゃんの助けもあってか、私はだんだん勉強に対する情熱を取り戻していった。
 おじいちゃんがしてくれる歴史の話や、鎌倉文学の話、寺社仏閣に関する話はどれも面白かった。おじいちゃんの話を聞けば聞くほど、勉強したいという気持ちが強くなった。
 勉強が好きになったら、あとは面白いように成績が上がっていった。高校受験では都内の有名公立校に合格した。
 あんなことがあったためか、お父さんとお母さんはとても反省していた。私に何度も謝ってくれた。
「最初お父さんは君のためにと思ったのは間違いないんだ。でも、どこかのタイミングで、私はおかしくなっていたのかもしれない」
 きっと中学受験というイベントが、家族全体を狂わせていたんじゃないかって思う。
 高校になって家から通うようになった。最初はいささかの気まずさも覚えたけど、だんだんわだかまりもなくなっていった。弟の樹はすっかり大きくなって、生意気な口を利くようになった。
 おじいちゃんは寂しそうだったけど、鎌倉の海が大好きになった私は、週末、ほとんど鎌倉の家に遊びに行っていた。
 おじいちゃんは「また来たのか。ほかにすることはないのか」と憎まれ口を叩いたけど、喜んでくれているのは表情でわかった。ときどき弟の樹も連れて行った。おじいちゃんは樹にも鎌倉の歴史や文化について教えてくれた。樹は「僕四年生になったら塾に行くんだ」と嬉しそうに言った。
 高校三年間はあっという間だった。お父さんも、勉強についてはいっさいなにも言わなくなった。ときおり「KO大学に行ってくれたら、お父さんは嬉しいなあ」と言うくらい。お母さんは「真央の好きにさせるって約束でしょ」とお父さんをたしなめた。
 でもごめんなさい、お父さん。私はお父さんの後輩にはなれなかった。

 私は違う大学に合格して、今日はその手続きに来ていた。
 駅のホームから階段を上がって、改札を抜ける。駅には若い人が多かった。私は出口に向かって、再び階段を下りる。
 降りた目の前に灰白色の石畳の道が開けていて、向こうに茶色の時計台が見える。私は時計台の手前にある大学の正門を目指してまっすぐ歩いた。
 三月にしては暖かく、明るい太陽の光がさんさんと降り注いでいた。大学の前は新入生と思しき人々であふれかえっている。彼らはみんな誇らしげな表情で、ヒマラヤスギの並木道を歩いていた。
 ときおり在校生らしい人が、サークルに興味ないか、私に話しかけてくる。私は笑顔でかわしながら、人の波をくぐり抜けた。
 ほどなく大学の正門に辿り着いた。門扉には、丸い形をした柏葉の透かし模様がある。
 歴史を感じさせる灰色の高い門、重厚な感じがする黒い看板に、少し圧倒された。同時に、私はこの大学の学生になるんだなと身が引き締まる思いがした。
 時計台前にある白樫の木が鮮やかな緑色に生い茂っている。その木の前にある案内板の横で、私は深呼吸をした。それから周りを見渡してみた。
 はっとした。
 あの後ろ姿。身長は伸びて、すっかり大人になっているけど、間違いない。サッカーのバッグを持って、少し足早に歩く。
 私はその人物に向かって走り出した。すぐに追いついて声をかけた。
「宮田君?」
 その人物が振り返った。
 黒目がちの優しげな瞳。少し茶色がかった黒髪。通った鼻筋。大人になったけど、あのときの面影はそのまま。
 やっぱり宮田君だ。宮田君はあのときとまったく変わらない笑顔だった。少しいたずらっぽく、照れくさそうに、でもすべてを包み込んでくれそうな笑顔。
「宮田君、大学で待ってるって言ってたから、きっとここだと思って……」
 胸が詰まって、それ以上なにも言えなかった。いまにも涙があふれそうになった。
 宮田君は私に近寄り、そっと私を抱きしめた。そして耳元でささやいた。
「きっと戻ってくると思ってたよ。おかえり」
 春の木々の香りと新入生の熱気を含んだ風が、私の頬を優しくなでていった。

(了)




(小さな受験生たち 第一部 完)




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