ひきこもり
ひきこもりは甘え、そう思っていた。葉真中顕の『鼓動』を読んで、そんな切り捨てるような考え方はやめるつもりで書いてみる。正論はおもしろくない。女に嫌われる理由の筆頭にも、正論を言う、があるように。わたし調べだが。
ひきこもりを引きずり出して施設に放り込む企業がある。彼らはその様子をYouTubeに投稿していたので、いくつかみた。もれなく悪徳企業だと思う。『鼓動』でもそれに触れていた。
動画では、代表と思われる反社のような見た目のデブがこんなことを言っていた。
「なんで働かないかわかってる? わかってるの? それは働かなくても飯が食えるからだよ」
頭の悪そうなやつが言う正論だ。ちなみに私もそう思うが。
だが、これは言う側が気持ちよくなっているだけだ。正論を突きつけたところでなにも解決しない。
「仕事とわたし、どっちが大切なの?」という問いに、「どっちも大切だよ」と応えるくらいバカな回答だ。
ひきこもりには各々原因があると思う。しかし、それは過去のことで、原因の解決はできないしムダなことでもある。
ひきこもりの彼らは、社会が厳しいと感じてしまっている。そして、なにがそんなにプレッシャーなのかというと、何者かにならなくてはいけないという圧力だ。わたしも常に感じている。
多くの情報を得られるいま、何者かの活躍が目立ち、親もまわりも社会も、ああなりなさい、こうなりなさい、という激しい圧力を加えてくる。無意識的かもしれないが。
漫画が好きなら漫画家を目指す? 出版社に入る? スポーツならプロ? 数学ができるなら研究者? 動画好きなら配信者?
わたしは卒業文集で、将来の夢にタクシードライバーと書いた。それを見た親は呆れるだけでなく、そんな誰でもできるようなことを目標にしないでよ、なんて言ったのを憶えている。これが、絶望の根源なのではないだろうか。
単なる店員、清掃員、交通誘導員でもなんでも、立派なもんじゃないか。こういう認知が広まることが希望に繋がっていくと思う。そんな結論のような、『鼓動』の感想のような。
P.S. 仕事とわたし、どっちが大切なの? という問いについてだが、第一段階としては「わたし」が正解だ。そして、「じゃあどうして~」と第二の矢が飛んでくるが、そこは臨機応変にがんばるしかない。 仕事及びどっちも、が不正解なことだけは覚えておくべきだろう。
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