私の過去⑯~探していた答え・スピリチュアル視点~
ずっと前、私が高校2年生で、曾祖母が亡くなった後、ぐるぐると考えてしまった事がありました。
人が亡くなるとはどういう事なんだろう...
この間までは、ここに、すぐ近くに、居たよね?
生きてて、一緒に話しも出来て、触れ合えて、それなのに、亡くなって居なくなってしまうって...、どういう事...?
ここから居なくなって、どこへ行ったの...?
もうどこにも居ないの...?...
人が生きていて、何らかの理由で亡くなる...
存在していたのに、亡くなって、現実的に居なくなる、どういう事...?
どこへ行ったの...?もうどこにも居ないの...?
この疑問は、穏やかにですが、やはり私の内心にずっとありました。
結婚後、親戚の葬儀などに参列する機会がありました。私にとっては初めての体験でした。
宗教というもの全体に抵抗感があった私は、最初はその葬儀やお寺での法要、雰囲気などにも抵抗を感じました。
参列は強制的ではなかったですが、親戚なので当たり前に参列する流れでしたし、私自身、お世話になった方にきちんとお別れをしたいという気持ちがあり、参列しました。そして、そういう体験を重ねる毎に慣れていきました。
その中で毎回、お寺の住職の方の法話を聞く機会がありました。
私は詳細な知識がないので、大まかな書き方になってしまいますが、
人の魂は輪廻転生するという事。
亡くなると、魂が肉体から抜けて、肉体とはお別れ。魂は新たな輪廻転生への旅に出る事。
残された人達は、その死を悼み、亡くなった方が今まで生きて来られた事を労い、その方へ感謝をし、その方が新たな輪廻転生の旅へ安心して向かわれるように、私達は残された人生をしっかり生きる。
そういうような内容の法話を聞きました。
私の中で、...なるほど...と思いました。
同じ頃に見ていたドラマにも、私の中に印象深く残ったセリフがありました。
「人は死ぬけど続く。なんのために。
次産まれてくる人にようこそと言うために。お帰りと言ってあげられる場所を作るために。そこから行ってらっしゃいと送り出してあげるために。」
(Q10第7話より)
この言葉が、この頃の私にはとても響きました。
法話で聞いたお話しやこの言葉は、曾祖母が亡くなってから、私がずっと探していた事の答えのように感じました。
そうか...人が生まれて、亡くなる事、それは昔から今も続く、自然な事なんだな...、
詳しくはわからないけど...輪廻転生...そうなんだな...、
私は、その中で、生まれて来た人を心から出迎えて、亡くなり旅立つ人をきちんとお見送りする。自分の命がここから旅立つ時まで、そんなふうに生きていったらいいんだ... と思いました。
そういう捉え方が、ストンと、私の中で1番しっくりきました。
この時、ずっと探していた事の答えが見つかった...、と思いました。
それから何年も経ち、近年
コロナが流行り、亡くなった方をお見送りする形に変化はありましたが、それも大事な事だと思いました。形よりも大事な事は、気持ちそのものだし、と思いました。
数年前に、スピリチュアルな視点に出会いました。
もともと幼い頃から宇宙や星には興味があり、夜空の月や星を見るのはとても好きでした。
すんなり興味を持ちました。
ただ、スピリチュアルな視点と言っても、
実際に今自分が生きているのは、ここ3次元なので、
少し迷いながら、その考え方を、程よく取り入れてみようと思いました。
宗教ではなくても、スピリチュアルな視点は、人の生き方に影響するものという点では似ているな...と思ったので、傾倒しすぎないようにと意識しながら、自分の心にしっくりくるものだけを採用し、当てはめてみました。
これも、私は詳細な知識がないので、大まかな書き方になってしまいますが、
輪廻転生が前提で、
人は生まれて来る前に、自分の人生のシナリオを自分で決めて、そして生まれてくるそうです。
だから、自分でどの親の元に生まれてくるのかも、どんな体験をして、どんなふうに育っていくのかも、決めて来る...。
この事を聞いた時も、...なるほど...と思いました。
自分の人生が、1本の長い映画だとして、
自分の人生の中で起きる(起きた)事すべてが、その映画のシナリオ。ストーリー。
自分の人生だから自分が主役で、関わってきた人達は全員、出演者。という事です。
私は同じく数年前から、時々、自分が目に見えない宇宙の何か、大きな流れの中にいて、その流れに導かれているような感覚を感じるようになりました。
そう、自分が、自分の力で、...もう頑張れない...と思った後からでした。
もう、自分自身の頭で考える事では、どうにもならない。自分の力では、どうにもならない。
何か宇宙に大きな力とか、流れがあるのなら、私はその流れにすべて委ねよう...と思ってからでした。
その時に、もう流れに抵抗しない、コントロールしない、信頼してすべて委ねます...、と思いました。
日々生きるのは、自分自身ですし、生活する事、いろいろ決めて動くのは変わらず自分なので、何も変わりはないのですが、
以前よりも、その時、その時、自分の心に従って、自分の素直な気持ちに従って、物事を決める。そういう気持ちを優先して過ごすようにしました。
その後、日々、そういうふうにしていたら、
自分やまわりの状況や環境が自然な流れで変わる節目が来たり、
物の見方、受け取り方に、それまでの自分では考えられなかった変化や気づきがあったり、
自然と物事が動いて行ったり、
その時そのタイミングで欲しかった言葉や情報に、不思議な手段で出会えたりなど...、何回も、
わぁ...本当に、私...導かれてる...と、感じる事がありました。
このnoteとの出会いもそう思いました。
今年に入り、自分の過去に向き合い、本格的に自分自身の内面の気持ちと向き合ってみようと思った時に、あ...、noteに書いてみよう...と。
このnoteを始めて、書き続け、私は自分の人生を振り返り、過去を思い出し、自分の気持ちと向き合って、また書いて...、を繰り返しています。
noteのおかげで、新しい気づきもありました。
私は、導かれて、noteを始めて、何か大事な事に気づくために書き続けているんじゃないかな...と思ったりしています。
もしも本当に、自分が自分で、どの親の元に生まれて、どんな体験をして、どんなふうに育ち生きていくのか、シナリオを決めて来ているとしたら、
じゃあ、私は、いったい何のために、自分の人生のシナリオや出演者をこんなふうに決めて来たんだろう...?と思いました。
両親が入信し、幼少期辛い体験をして、両親との衝突を重ね、決別する事。自立し、結婚するも、自分が心身傷ついているためにずっと生きづらく、迷い悩み続ける事。
こんなに長い年月をかけて、悩みながら生きる人生。
私はなぜ、いったいどうして、自分の人生をこういうストーリーにシナリオ立てて来たのだろう...
そう考えました。
なぜ、わざわざ辛く、苦しく、大変な経験満載の、ストーリー??... ... なぜ???
それには、何か理由があるはず...理由があるよね...
いったい何のために...
私は、... 愛を学ぶため...??
そう思いました。
先日も、自分は無条件の愛とか、無償の愛とか、わからない...、自分に向けられる愛情がわからない...と思っていました。
私は、もしかして、その愛を学ぶために、
自分自身こんなストーリーを、シナリオ立てて来たの...??、そう思いました。
愛を学ぶため ... ... ??
もしかして...
その愛はもうずっとそこにあったもの... ...?
ずっとそこにあったのに、忘れきっていたもの... ...?
もしかして...
その愛を思い出すため ... ...??
忘れていた愛を思い出すため、
そのための長い長い今までだったの ... ... ??
そう思いました。
⑰に続きます。
お読み頂き、ありがとうございました。