脱稿したあとで、
なんだかすごくスッキリとしている。この感じは本当に何度経験しても感動してしまうくらいに。
…と、ここまでは(脱稿した)その日のうちに書いておいたのだけど。息子に寝かしつけが結局回ってきてしなくてはならぬことが渋滞したために、こんな後になって今この日のできごとを思い出しているところ。
考えていること、いたこと。
本当はこう伝えたいとあるのに、その伝えたいに相応しい表現が見つからず、結局的外れな言葉となって相手に伝わってしまったりしたこと。
そんな微細なズレが積りに積もると、私は感情の消化不良を起こす。何も感じたくない、そう思ってしまい、殻に閉じこもってしまうのだ…。
感じすぎてしまうが故に起きる防衛反応だけれど、やはり私は考えることが好きだし伝えたいことはきちんと心のうちにあるものとのズレが少ない状態を表せる言葉で伝えたいと思うから。だから、消化不良を起こさないためにも書かないとと思っている。日頃から。
それはどんなかたちでもいい。このエッセイでも日記でも。手帳の隅っこに書き連ねることだって全然いい。近頃はネット上に言葉を書き連ねることがほぼなかった。作家としてのペンネームでやっている方のネット上のこういった場の更新は全体的に止まってしまっている。
それは単純に“読んでいただく”言葉を選び文章にできなかったからなんだけど。
でも、やっぱり自分だけの中で済ますことはやっぱり満足はできなかったから、やはり私はそういう意味でも書き手でいたいんだなあと思った。
だから、この原稿を書き上げた夜はすごく満たされたのを覚えている。あの感覚はきっと、書く人ならわかってくれるんじゃないだろうか。
まさにさっき書いたこと言葉の結晶。集合体。それこそがこういった『作品』として縁取られ形になり、公募という枠を通して人の目に触れる。
もちろん公募なので篩にかけられ落とされたら誰の目に触れないで終わることもあるけれど、今はそれこそネット上に作品をあげられるから、陽の目を拝ませることは不可能じゃない。いい時代になったなあと心底思う。
もちろん篩に落とされず、上り詰めて『結果』を得たい気持ちはある。書くことにおけるモチベーションにもなるし、私の思考諸々感覚における自信にもなるから。だから結果を求めていると言えばもちろん肯である。
でもここに執着するあまり書きたいことを見失うのは嫌だなあ。
そう思う私がいることに気がついた。
だから、今回はなるべく公募の傾向やテーマをチェックはしたけど、あまり気にせずのびのび作って書いた。
楽しかった、単純に。
幸せだった。
生んだ登場人物たちがイキイキとする様子を眺めて見守れる親心が私を満たしてくれた。
作品づくり。
楽しいだけじゃだめだろうし、公募に出すなら傾向を見ないといけない。
わかった上で。書きたいものをどうしたら最大限書けるのかを追求できたらいいよね。
でも本当、評価されることを今、私は自分でも驚くほど手放している。
してくれたら嬉しいです。
そんな期待を持たない、根無草のようなふわふわとした気持ちで書いていたくて。
まあきっとこんなこと言いながらモチベーション保てなくて…なんて弱音吐く自分が目に見えていますけど。
でも、自分のペースでやっていく。焦ってるなあと思ったら、一歩下がって落ち着いて。(なるべく)客観的に自分を見てやっていく。
今しかできない経験も気持ちもたくさんあるから、それを取りこぼさないように暮らして、カケラとして書いて残して。
カタチにするのは、それからでも遅くない。