「人の痛みに気付く人になってください」
私が通っていた中高の校長先生がよく言っていた言葉だ。
最近やたらと、私の頭の中でこのフレーズがこだまする。
この言葉は、小さい子どもに親がよく言う
「自分がされて嫌なことは他の人にもしないように」
といった類のものとは少し言葉だと思う。
ポイントは”気付く”という部分。
「人の痛みを考える」
でも、
「人の痛みを思いやる」
でもない。
”気付く”ことが大切だと言っているのだ。
これは、それぞれの人が抱えている”顕在化していない問題”に目を向けることなのではないかと思う。
小さな悩みの種というのは、往々にして周りから見えにくいものだ。
それが小さなままその人の中で解消されていくこともあれば、犯罪や非行といった目に見える形にまで肥大化してしまうこともある。
今の世の中は他人に無関心だと思う。
私はまだ25歳であるが、私の小学生時代と比較しても特に都市部において地域の共同体意識のようなものは確実に減っている。
SNSの普及もこの傾向を加速させる一つの要因だろう。
SNSは匿名で世界中の誰とでも繋がることができるが、その反面一人一人の繋がりは希薄だ。
学校の友人、職場の友人とは異なり、SNS上だけの知り合いというのはSNS上でどれだけ親密な交流をしていたとしても、何かトラブルがあったらすぐに関係が切れるところにその希薄さを感じてしまう。交流そのものの親密度合の話ではない。
先に、「今の世の中は他人に無関心」と書いたが、要は嫌なことから目を背けやすいということだ。
一見楽しそうに見える人の背後に潜む、小さな悩みの種を見落としてしまいがちな世の中だ。
私は別にSNS批判をしたいわけではない。私自身、小学生でモバゲーやmixiを始めて以降ずっとSNSは続けているし、SNSを通じて実際に出会った友人もいる。
だがやはり、彼らに対する私の理解度というのは、中高時代の友人や大学での友人に比べて低い気はする。私には彼らの悩みの種には気付けない。
ダラダラと書いてきたが、他人が抱えている悩みの種に気が付けるほどの関係性の人間などそう多くはない。
家族や恋人、頻繁に会う友人、職場や教室でよく喋る数人の相手ぐらいのものだろうか。
せめてそのような関係の相手については、痛みに”気付いて”あげたいと思うし、私の痛みにも”気付いて”もらいたいと思う。
結局こんな話は気の持ちよう次第で、相手のことをどれだけ思いやって見ているかという話に帰着するような気もする。
本当は少年犯罪と親子関係に関する話を絡めようと思ったけど、めちゃくちゃ長くなりそうなので今回はやめました。
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