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『月の沙漠の曽我兄弟(10)』

〈前回のあらすじ〉

 自分が勤める源田印刷での工藤による横領が週刊誌で取り上げられると、曽我純一は胸騒ぎを抑えられずに出版元の北条出版へと足を運んだ。

 そこで記事を執筆した和田義男を紹介され、氏の自宅へと向かう途中で飛び込み自殺を図ろうとした梶原を救う。

 10・再会

 固い沙漠の砂を踏み締めて歩く駱駝のように、とぼとぼと三鷹の和田邸の玄関を出ると、その門の前に人影があることに大吾は気付いた。

 ふと見上げると、そこには清楚な白いワイシャツにスーツを着た自分と同年代と思しき青年が立っていた。ネクタイは春の空を映したようなさわやかな青だ。

 新聞の勧誘やNHKの受信料の徴収員にしては身なりが整いすぎている。むしろ背後にいる野暮ったい中年サラリーマンのほうが、それらしく見えた。

 大吾の知らないところで、和田が印税や原稿料を資産運用していて、銀行員もしくは証券マンが定期訪問に来たのかもしれないと大吾は憶測した。

「大吾」

 その男たちを一瞥して、小さく会釈をしながら通り過ぎようとすると、大吾はその男に呼び止められた。

 記憶の奥底にしまってあった懐かしい声を耳にして、大吾ははっと振り返り、改めてその男の頭から爪先まで、しっかりと見た。そして、大吾は驚愕し、声を震わせた。

「にぃ……、ちゃん……」

 なぜそこに長年連絡を断っていた純一がいるのか、大吾にはさっぱり理解できなかった。しかし、そこには確かに、高校生の頃よりも随分と三郎の面影を濃く反映した自分の兄が立っていた。

「久しぶりだな」

 そう言って微笑む純一の胸に、大吾は飛び込んでいきたいと思った。でも、これまでの九年間、この街のどこかで兄の純一も父親の敵を取ろうと歩んでいるのだと信じながら、寡黙に、ただ工藤の首を取るという思いだけを支えに一人で闘ってきた大吾は、誰かの温もりに身を預ける術を持たなかった。

 すると、身動きが取れなくなった大吾に純一が歩み寄り、その身体を両腕でしっかりと包み込んだ。

「オレは、決して間違っていなかったんだな」

 その言葉を聞いて、大吾は目を見開いた。

「ってことは、にぃちゃんも……?」
「ああ、覚えているとも。お前が夕焼けに向かって誓ったあの言葉を。今まで、よくがんばったな」

 純一の言葉を聞くと、堪えていた大吾の感情が一気に溢れ出した。そして、言葉にならない嗚咽とともに、大吾は涙で純一の肩を濡らした。

「大丈夫だ。もう、終わる。もう、何もかも終わるんだ」

 そう言った純一の声も震えていた。

 その時、ぼさぼさ頭の男が玄関から現れた。その顔を見て、純一はいつかどこかの新聞広告で見た和田義男の宣材写真を思い浮かべた。恐らく北条出版の佐々木編集長から純一が向かうことを知らされ、待ち構えていたのだろう。

「これで役者が揃ったな」感慨深そうに腕組をして頷いていた和田は曽我兄弟の向こう側にぽつんと立っている徴収員風情の中年サラリーマンを見つけて、目を丸くした。「おやおや、なんとまぁ、お前の兄貴も大したもんだな。手土産に源田印刷の経理部長を連れてくるなんて」

 嬉しそうに身体をのけぞらせて破顔した和田は、感動の再会を果たしている純一と大吾をそっちのけにして、梶原を丁重に自宅へ導いた。恐らく自分が調べ上げた源田印刷の内情について、梶原から裏付けを取るつもりなのだろう。

「粗雑に見える人だけど、大丈夫。和田さんは、オレたちの味方だ」

 頬を涙で濡らした大吾が、顔を上げて笑った。

「きっとオレをここへ案内した佐々木さんも、そうなんだろうな」純一は自分と同じ背丈の大吾の肩を抱き、感慨深く呟いた。「改めて、親父の偉大さを痛感したよ」

 純一と大吾の父親である伊東パッケージの社長、伊東三郎は、ロシナンテとともに風車に挑むドン・キホーテのごとく、無謀にも果敢に会社の立て直しに奔走したが、脳裏の片隅では自身の願いや行いが結実しないことを覚悟していた。その時のために、日々東奔西走する傍らで、信頼できる何人かの親類や友人に手紙をしたためていた。

 そのうちの一人が、三郎の死後、残した妻の再婚相手を見定めてくれた北条印刷の社長、北条時春だった。

 北条氏は実の娘を源田印刷に嫁がせ、中小企業ではありながら、源田印刷と太いパイプで繋がり、安定した業績を上げていた。

(私は無念だ。義父から受け継いだ会社をあっけなく、たった一人の男の私欲のために失うことが。しかし、それも平井プリントを追われた工藤に温情をかけた義父や私の責任でもある。そう分かっていても、妻や二人の子には苦労をさせたくありません。幾らかの死亡保険金も入ることでしょうが、細々と暮らしていく妻と子を、どうか見守っていただきたい。そして、願わくば私利私欲に溺れた工藤の目を覚ませていただきたい)

 三郎はもしも心労が祟って息絶えるようなことがなければ、自ら死することも考えていてのだろう。

 その手紙を受け取った北条氏は、三郎の妻に新しい夫をあてがい、二人の子供ともども、曽我として生きていくことを勧めた。もちろんそれは工藤の目を欺くためでもあった。

 そして、三郎の無念を北条出版の片腕でもあった佐々木高司編集長にも伝え、常に源田印刷の工藤を監視するよう命じていたのだった。

 叩き上げの編集者だった佐々木は今まで数多の印刷会社と取引してきたが、伊東パッケージほどの技術と誠実さを備えた会社を知らなかった。それは経営者である河津三郎の手腕と人柄があってこそと、佐々木も一目置いていたので、北条時春に勝るとも劣らず、工藤裕介への復讐心を燃やしていた。そして、新聞記者上がりの和田義男に白羽の矢を立て、源田印刷の内情を調べさせた。

 和田義男もまた新聞記者としても小説家としても食えないときに、伊東パッケージから地方の小さな情報誌への執筆などの仕事をもらった恩義があった。

 そこに思いがけず三郎の次男である大吾が見習い編集者として飛び込んできて、それから数年を経て、ついに三郎の長男である純一が、運命に引き寄せられるように佐々木の前に現れたことに、越冬した渡り鳥がまた故郷に戻るような宿命を感じずにいられなかった。

『月の沙漠の曽我兄弟(11)』につづく…。

〈あらすじ〉

 祖父が興し、父が受け継いだ伊東パッケージの技術とデータを盗んで大手印刷の源田印刷へ寝返ったのは祖父のいとこである工藤だった。父は顧客を奪われ、経営難になった会社を立て直そうと奔走したが、力尽き、息絶えてしまった。残された二人の子、純一と大吾はやがて大きくなったら、祖父を裏切り、父を死に追いやった工藤への復習をしようと夕焼けの空に誓ったのだった。

 曽我兄弟の仇討ちを描いた曽我物語の現代版。登場する人名や相関は、史実に則っている。

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