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「銀座・鮨青木」の青木ちゃんとは彼の亡くなったお父様の時代からのお付き合いで、もう35年以上になります。
銀座鮨青木の青木ちゃんとの出会いは35年以上前です。
彼のお父様は銀座・なか田で修行され、独立して京都で鮨屋をオープンされ、その後
東京に戻り赤坂・紀尾井町で1986年に「鮨・青木」を始めました。
ホテル・ニューオータニの会員制スポーツクラブに通っていたこともあり、またニューオータニからすぐだったので、どんな鮨屋か気になり一度お邪魔しました。
お父様の初めての印象は無口な鮨職人という感じでした。
少し緊張して席に着くと、ご主人はお猪口が何個か入った籠(かご)を出してきて
「お好きなお猪口を選んでください」と言われました。
ちょと迷って何か持ちやすそうで、色も僕好みのお猪口を選びました。
ご主人は
「お客さん何で、そのお猪口選んだんだい」と聞いてきました。
理由を説明するとご主人は
「お客さん、いい目しているね。それが一番高いお猪口なんだよ」と僕に言ってきました。
その瞬間今までの少し重苦しい空気がなくなり、ご主人と僕の間が近くなったような気がしました。
お手伝いしている奥様は、ご主人とは好対照で、よく喋る明るい方でした。
それ以来、無口なご主人とも、少しづつ話す様になりました。
ご主人にお酒🍶を勧めると、お酒好きなので、お付き合いしていただきました。
いつも奥様はご主人に
「あなた、お酒控えて下さいよ」と言っていました。
そのやり取りからは、ご主人は奥様に頭があがらないような感じでした。
何回か通ううちに、ご主人と奥様とも、よく話すようになり、段々仲良くなってきました。
そんなある日ご主人に
「菅さん、うちの息子を社会勉強だから、一度銀座に飲みに連れて行ってくれないか」
と頼まれました。
それが青木ちゃんに会うきっかけでした。
まだ彼は修行中で表には出てきませんでしたから。
銀座と六本木のクラブに青木ちゃんを連れていき、2人で随分お酒を飲みました。
彼は余りお酒が強くないので、結構、酔っ払ったようでした。
後で少し飲ませすぎたかなと反省しました。
後日、お店に伺った時、ご主人に
「菅さん、うちの息子に飲ませすぎだよ!全然次の日、使い物にならなかった」
怒られてしまいました。
その後、青木ちゃんが1992年に紀尾井町から銀座にお店を移した時、偶然、僕の大学の先輩のビルに入りました。
やはり青木ちゃんとはご縁があるなと感じました。
そして時がたち2007年に僕は西麻布のマンションに引越しました。
引っ越したばかりで、夜遅くにマンションの近くで、偶然、青木ちゃんと道で出会いました。
青木ちゃんに
「菅さん、こんな時間に何処に行くんですか」とびっくりした表情で聞かれました。
僕が「この先のマンションに引っ越したんで、帰り道です」と答えると
「菅さん、僕もすぐ近くに土地を買って、自宅と新しいお店を作っているんで、見にきたんです」
「よかったら見に来て下さい」と言われたのでついていきました。
僕のマンションから徒歩3分の所でびっくりしました。
自宅とお店はほぼ完成していて、青木ちゃん家族も引っ越して来ることになっていました。
「銀座と西麻布に2軒の鮨屋をやることになるので、忙しくなります」
「菅さん、ご近所になるのでよろしくお願いします」と言われました。
1階がお店で2階と3階が住居になり、地下に別の鮨屋が入ることになっていました。
それからは青木ちゃんの西麻布店に行くことが多くなりました。
青木ちゃんが銀座店から帰ってくると、お店の従業員と皆んなで、すぐ近くの韓国料理店に、よく行きました。
また目黒通りにある横綱・曙の名がついた650gのステーキがあるステーキ屋さんにも行きました。
青木ちゃんは鮨屋の従業員を「チーム青木」の一員と考え、全員で2軒の鮨屋を運営して行こうと考えていました。
夏には大規模なバーベキュー・イベントにお客様や関連の方々を招待したり、年末にはお店の従業員の家族も含めての忘年会をしたりしていました。
僕も青木ちゃんの懇意にしているお客様と一緒に参加しました。
ある時はお台場で開かれた「ドラゴンボート大会」にも「チーム青木」のお揃いのTシャツで、僕も参加しました。
この大会の為に隅田川でボートを漕ぐ練習もしました。
大会には確か2回参加したと思います。
これはいい思い出になりました。
「ドラゴンボート大会」に参加した後は、赤坂にある老舗のメキシコ🇲🇽料理店「Mexico Lindo」で、貸し切りの打ち上げ会も全員でやりました。
若い職人さんも青木の常連さんも、お揃いの「チーム青木」のTシャツに身を固め
「ドラゴンボート大会」で全力でボートを漕ぎ戦い抜いた満足感と連帯感が芽生え、
「チーム青木」は結束していったと思います。
打ち上げでは、お店のクーラーに入っていたお酒を全部飲み干し、「Mexico Lindo」の柳子ママに、後で会費が安すぎたと言われました。
当時は銀座店も西麻布店も年中無休でやっていました。
若い職人さんのアパートを借りたり、食事会も度々やり「チーム青木」で2店舗を運営していました。
鮨屋の拘束時間は早朝の築地市場での買い付け、江戸前寿司の手がかかる仕込みなど
で相当長くなります。
皆、自分のお店を銀座に出す夢を持って修行に耐えています。
青木ちゃんはお正月のおせちを考案したり、新しい食材を使ったり、江戸前寿司の伝統や基本を守りながら新しい鮨への挑戦を絶えずしていました。
僕はその挑戦する姿に共感していました。
他の鮨屋では新人には最初は雑用とか掃除しかやらしてもらえず、先輩の世話に明け暮れる事が多かったようですが、青木ちゃんは新人にもどんどん仕事を与え、仕込みにも参加させていたようです。
これも青木ちゃんの「チーム青木」の精神だと思います。
青木ちゃんの私的なエピソードを紹介しようと思います。
お店が終わると、よく西麻布の韓国料理店に職人さん達を連れて行くと話ましたが、
青木ちゃんはババっと注文を最初にして生ビール🍺を頼み、一気に飲み干しますが
少したつと寝てしまいます。
やはり早朝からの仕事と銀座店が終わってから西麻布に帰ってくるのですから
相当体力使っているんですね。
僕達はお酒と料理を楽しんでいますが、大体1時間ぐらいで、青木ちゃんは急に目を覚まし、会計しようと言います。
このパターンは僕は好きです。
疲れているのに若い職人さんの慰労の為に、食事会をしてあげる彼の優しさが好きでした。
またある時は、目黒通りのステーキ屋さんに行き、皆んなで生ビールとワインと大ぶりのステーキセットを堪能して、西麻布の交差点にあるアイスクリームのお店「ホブソンズ」に青木ちゃん達と行きました。
僕は相当酔っていたみたいで、カウンターから落ちそうになるぐらい傾いてアイスクリームを食べていたそうです。
その時、彼は僕の横で倒れないように支えていてくれたそうです。
これは後日青木ちゃんから聞き、自分が相当酔っていたんだことと、改めて青木ちゃんの優しさに感動しました。
修行中の若いのがお店に立っているとか「チーム青木」に対するご批判も、たまにあります。
でも当時の青木ちゃんのお店にいた3人の若い職人さんが現在、銀座に独立して鮨屋を出しています。
銀座鮨鈴木は予約が取りにくい名店になっています。
また銀座鮨杉澤も青木ちゃんの流れと江戸前寿司を守り頑張っています。
また影山君も銀座鮨影山をオープンして、青木ちゃんで修行した江戸前寿司を基本に新たな鮨を模索して、やはり将来、名店の仲間入りをするでしょう。
青木ちゃんは独立した彼らにも青木と同じ書体の屋号の付いたおしぼりとかプレゼントしています。
西麻布の青木があった場所で
田久保君が鮨[和紀]をオープンしました。
「チーム青木」があったからこそ、江戸前寿司の伝統を守る若い有望な職人が育ったのだと思います。
青木ちゃんは「バブル」時代からの数少ない友人の1人です。
現在は西麻布店は閉店して、銀座店一本で頑張っている青木ちゃんの益々のご成功を祈るばかりです。
銀座鮨青木
104-0061
中央区銀座6-7-7-4F
03-3289-1044
銀座鮨鈴木
104-0061
中央区銀座6-5-1
03-5537-6868
銀座鮨杉澤
104-0061
中央区銀座6-3-15
03-6274-6566
銀座鮨影山
104-0061
中央区銀座8-7-9
03-5962-879
鮨和紀
106-0031
港区西麻布3-23-7
03-6804-3329