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『エフェソス、パトモス島への旅⑥ ~聖書を語る遺跡(後編)~』

■エフェソス遺跡の探索(前編から)
前編があまりに長くなってしまったと思って途中で中断したのですが、中途半端なのでやっぱりアッパーエリアの最後までを追加して更新しました。
それから、少し間違って紹介してしまっていた部分があったので訂正しています。

■エフェソス遺跡の探索(後編)
アッパーエリアとローアーエリアで明確な区分けがされている訳ではないのですがケルスス図書館と娼館、辺りが中間地点でそこが境のような感じだと思います。ここからは下記のマップに沿って案内していきます。

ローアーエリア

①娼館の案内板
クレステ通りから歩いてくると正面にケルスス図書館のファザードが見えてきますが、前編で娼館を案内させていただいていますので先にる娼館の案内板を紹介します。クレステ通りを右に曲がって大理石の通りに入ったすぐのところにあります。

少し見えにくいですが左足の型と右側に冠を被った女性、そしてその女性の下に横長の長方形が刻まれていますがこれはお金と説明されています。(この時代に紙幣があったと思えないのですが…)足跡の左上にはハートのマークがあります。つまり、この案内板はこの足の型より大きな人が娼館を利用できるということらしいです。

世界最古の案内板といわれています

②ケルスス図書館
残念ながら私たちが訪れた時は何かの工事中で遠くから見るだけでした。ファザードの細かい写真を撮りたかったのですが、撮れなかったので細部はフリーの写真をお借りしました。

図書館の右に商業アゴラへの門が見えます
彫刻と大理石のマーブル模様が奇麗

このケルスス図書館は思ったほど大きくなく数ある建物のなかでも小さな方です。この図書館は実は霊廟でもあってローマ帝国の最高の行政職、執政官となったティベリウス・ユリウス・アクイラ・ポレマイアヌスがアジア総督を務めた父であるティベリウス・ユリウス・ケルスス・ポレマイアヌスの墓として紀元110年代に建てたもので図書館地下の納骨堂に石棺が埋蔵されています。図書館としても12,000本もの図書が所蔵されていたとされ、当時の世界でアレクサンドリア、ペルガモンの図書館に次ぐ規模の図書館だったようです。

パウロがエフェソスにいた時代にケルスス図書館は存在しておらず、ケルススもエフェソスにいなかったので接点はないと思われます。ただ、ケルススはローマの役職を務め終えた後、司祭会の一員になったと言われています。
ローマの司祭職については聖書の使途言行録にも出てきます。前編でも少し触れましたがエフェソスでアルテミスの暴動が起こった際にローマの高官たちがパウロに「出ていかないように」と注意を促したところが記されています。(使途言行録19:31)この「パウロの友人でアジア州の祭儀をつかさどる高官(新共同訳)」というのがその役職にあたるものではないかと思われます。この司祭職はローマ帝国で各地の神々の崇拝について監視、監督していたとされていてエフェソスはアジア州の州都だったため、この全域に影響力を持っていたと考えられます。その司祭職とパウロは友人だったというところからエフェソスの一等地だったテラスハウスにも出入りできた可能性があったと考えられます。

また、使途言行録には銀貨5万枚にあたる魔術書などの書物が焼かれたと、あっさり書かれています。(使途言行録19:19)今の価値に換算すると何億円になるのかわからないほどの貴重な書物です。このような書物をいったい誰が所有していたのでしょうか。一般のエフェソスの住民が所持していたとは考え難く、やはりある程度、裕福な部類の人たちがパウロに教えられて魔術関連の書物を処分したと考えるのが妥当なのではないでしょうか。

数億円に相当する魔術書が燃やされた

そういう意味でもパウロがエフェソスの裕福層に与えていた影響は大きかったのではないかと思われ、それはローマの高官たちのよく知るところになっていったのだと思います。

図書館近くにもイクソスのマーク

③商業アゴラ
娼館の案内板がある大理石の通りの左側(ケルスス図書館の隣)には商業アゴラがあってエフェソス住民の生活を支えた商店などが並んでいたそうです。中庭を取り囲むように建物が配置されていて、紀元前3世紀にはすでに出来ていたとのことなので、アキラとプリスキラもここでテントを売るなどの商売をしていて、時にはパウロも手伝っていたりしたのでしょうか。
アキラとプリスキラはパウロにコリントで会った際にも一緒にテントつくりをしたと聖書にあります。(使途言行録18:3)そのアキラとプリスキラはパウロに同行してエフェソスまで来て、数年、住みながら宣教活動を助けています。

柱が並ぶところは建物だったところ
正面の門を抜けた先の右にケルスス図書館
テント屋はどこでしょうか

④野外円形劇場
いよいよ圧巻の円形劇場で半円形の直径は34mあるそうで25,000人の収容力があるそうです。音響効果に優れたつくりで訪れた観光客がステージで歌を歌ったりして効果を確かめたりしています。今でもコンサートなどで使われることがあって非常に状態よく保存されています。

紀元前3世紀につくられた劇場は拡張工事などを繰り返しており、パウロがエフェソスを訪れた際にも拡張工事がされていた可能性があるそうです。
聖書でエフェソスのアルテミスの暴動が起こった時、パウロの同行者だったガイオとアリスタルコが暴徒に捉えられてなだれこんだというのがこの円形劇場です。(使途言行録19:29)

人と劇場の大きさを比べてみてください
ステージへの古代通路、ワクワクします
劇場内部のステージ
劇場最上段からの絶景

セルチュクに来るバスから見えていた円形劇場の最上段に座っています。せっかくなのでここで朝、ワンコたちから死守したパンを食べることにしました。この絶景のなかで食べるトルコのパンの味は最高でした。
エフェソス遺跡を探索し始めて、もう3時間も経って昼の12:15になっています。まだ、もう少し続きます。

ここから正面に伸びているのがアルカディアン通りで、その先が港で海につながっていました。ちょうどアルカディアン通りの先に小さな山が見えると思いますが、ここにパウロが投獄されていたという伝承があります。聖書にはエフェソスでパウロが投獄されたことは記されていませんが、パウロがエフェソスで投獄されていたと考える聖書学者もいます。
聖書にはフィリピでパウロとシラスが投獄されたことが記されていますが、フィリピは街の高官が軍人上がりだったため、よく確認もせずローマ市民権を持つパウロを裁判無しで鞭打って投獄するという失態をやらかしています。(使途言行録16:16~40)しかし、エフェソスは州都でローマの執政官に近い人物もいた街ですからさすがにそんな失態はあり得ないと思います。
ただ、住民からの訴えで取り調べのため一定期間、軟禁などはあったかもしれません。そのようなことを通してエフェソスの高官たちの信頼をパウロが得た可能性は十分あるのではないかと考えます。

⑤映像ミュージアムとカフェ
大理石の通りとアルカディアン通りが接する一角に映像ミュージアムとカフェがあります。
映像ミュージアムでは周囲360度スクリーンにエフェソスの当時の様子を再現したCGなどが迫力ある映像として流されます。まるで自分もその中にいるように見えるので絶対、お勧めです。各国語の翻訳レシーバも貸してもらえますので、日本語でエフェソスに関しての説明も聞くことができます。

港からアルカディアン通りを行く映像
3Dではないですが周囲にスクリーンがあるので錯覚します
パウロも登場します

内容はアルテミスを称えるようなものでしたが、期待していなかっただけにすごく面白く感じました。

このミュージアムの隣にカフェがあります。カフェは重要ではなく店内の裏にあるトイレが重要です。たぶん、エフェソスの中間地点唯一のトイレではないかと思います。このトイレ、扉が暗証番号を入力しないと開かない仕組みになっており、カフェで何か注文した人だけが利用できるようでした。トイレに行くと扉が閉まらないよう前に利用した人が抑えていたりするので、トイレは利用できるかもしれません。
遺跡見学に時間かける方はここにトイレがあることを覚えておいてください。

⑥アルカディアン通り
野外円形劇場から古代の港まで真っ直ぐ伸びているのがアルカディアン通りです。港までの長さは600mあり両側には屋根付きの商店が並ぶ賑やかな通りでした。上の映像ミュージアムのイメージです。
現在は所々に柱を残すのみとなっており、古代の港跡も見たかったのですが、途中までしか行けないようになっていました。

この路の先に港がありました
この路でもイクソスのマーク発見

⑦聖マリア教会
元々は2世紀頃に商業施設として建てられ様々な商品が取引されていたとのことですが、4世紀に教会に改修、その後も教会として増築されました。
ローアーエリアで少し離れたところにあるため、忘れられがちな場所ですがこの教会は紀元431年、東ローマ帝国皇帝テオドシウス2世の招集によってエフェソス公会議が開催された場所です。
今は廃墟ですが、建物はかなりの大きさで立派な建物だったことを伺わせます。

聖マリア教会の案内板
前面の建物の幅は広くないのですが…


講壇でしょうか
奥行きはかなりあります
洗礼槽

⑧北口ゲート
ここまでで現時点でのエフェソス遺跡の見学はほぼ終わりです。遺跡はまだ未調査の部分や修復中のものもあるので、今後、注目すべき遺跡が発見されるのが楽しみです。パウロが出入りしていたシナゴーグやティラノの講堂もはっきりしていませんし、アキラとプリスキラが住んでいたかもしれない住宅なども見たいです。いそいで発掘してほしいところですね。

余談ですが、以前、エフェソス遺跡で福音書を書いたルカの墓が見つかったという話があり、一時期、ルカの墓として紹介されていた墓標がありましたが、建てられた年代とルカの生きた年代が一致せず、間違いだったことがわかっています。

これで北口ゲートから外へ出ます…が、まだ、終わりではありません。

⑨競技場
この古代の競技場はエフェソス遺跡有料エリアの外にあって、ほとんど見に行く人はいない場所です。キリスト教迫害の時代に多くのキリスト教徒がこの競技場で命を落としたと言われています。
そのため、後にキリスト教徒によって競技場は解体され石はほかの建造物に使われてしまい、ほとんど原形を留めていません。
見に行く方は北口ゲートを出て400mほど歩きます。但し、道路上からは何がなんだか判別できないので、道路反対側の丘に登って見てください。
アテネのオリンピック競技場をイメージしていただくと、だいたいの形が見えてくると思います。

道路からだとこれしか見えません
大きなU字状になっているのがわかります
案内板もかろうじて残ってます

以上がエフェソス遺跡の全貌です。他にも多数、写真を撮っているのですが載せられないのが残念です。私たちは入場してからここまで、昼以外は休憩無しで5時間半以上かかりました。10月は日差しはありますが、暑くはないので時間が許せばもっと時間をかけて見たかったところです。
遺跡が好きな人にとってはいくら時間があっても足らないと思います。


■世界七不思議 アルテミス神殿まで歩く

競技場を見て北口ゲートまで戻り、バスでセルチュクに戻る方法もありますが、私たちは当時の距離感を知りたかったのでセルチュク市街のアルテミス神殿まで歩いてみることにしました。2.5kmくらいなので30分くらいです。

アルテミス神殿はアテネのパルテノン神殿の4倍の大きさを誇っていたそうで間口が55m、奥行が105mあり、高さ19mの円柱が127本も並んだ巨大神殿だったといわれています。幾度となく破壊され放火され壊されますが、その度に再建されて壮麗なものになっていったそうです。かのアレキサンダー大王も紀元前333年の再建時に費用を負担すると言いましたが、エフェソスの人々はそれを丁寧に断り、自分たちだけで建て直したという逸話が残っています。どれほどエフェソスが豊かで財力があったということを示しています。その壮麗な神殿も紀元263年のゴート族の侵入で破壊されて、ついには再建されなくなりました。キリスト教がローマで公認、国教とされると、廃墟となっていた神殿の石材は各地の建材として利用されてしまったそうです。一説によるとこの神殿の大理石がイスタンブールのアヤソフィアに使われたという話があり、アヤソフィアの緑の柱がそれだという話がありますが距離を考えると現実的ではないし真偽のほどはわかりません。
下の写真の後方の丘の上にはアヤスルク城、その少し手前にイサベイモスク、右に聖ヨハネ教会跡が見えていて、ここはビュースポットになっています。

巨大な神殿も柱1本を残すのみ
柱を見つめるワンコ
アルテミス神殿の模型

アルテミスの暴動を起こしたデメトリオという銀細工職人はこの神殿の模型を銀で造って生計を立てていました。さすがに見事で柱1本しか残っていないというのはちょっと残念です。

アルテミス神殿周辺マップ

アルテミス神殿はD515線道路のセルチュク市街の手前に入り口①があって、駐車場②もあります。ビュースポットは③のあたりで柱は④あたりです。そのまま細い道を北東に歩いて行くと、人だけが通ることができる裏口⑤(※たぶん、旅行者が勝手につくった入り口だと思います。)
①の入り口は時間外、閉まってしまいますが⑤からは時間外でも入れるかもしれません。入場料などはないので問題ないかと思います。
但し、⑤は初見で入り口と判別するのは難しいので、ホテルや周辺などでよく聞いた方がいいかもしれません。
私たちは⑤の裏口から抜けて、エフェソス考古学博物館に向かいました。


■エフェソス考古学博物館

この博物館も絶対お勧めです。私たちはエフェソスの遺跡の後に博物館を訪れましたが、もしかしたら逆の方がよいかもしれません。ここにはエフェソス遺跡で発見された発掘物の実物などが多く展示されています。それから映像でエフェソスの街について紹介するビデオが流されているのですが、これが事前の下調べでは得られなかった情報を含んでいて面白かったです。
残念ながら博物館に着いたのが16:00くらいだったのでゆっくり見ることができず、ビデオも全部見れなかったのですが、街に張り巡らせた水道とポンプの施設があったことに驚かされました。できたら、もう1度、遺跡を見に行きたかったほどです。

トラヤヌス帝の噴水に飾られた彫刻
テラスハウスの壁を飾っていた象牙の彫刻
中央手前はピンセット、その奥はマント留め
ガラス製の盆
高度な技術で薄くつくられたガラス製品
金細工製品
紀元前2世紀のアルテミス像

前編でプルタネウムから発掘されたアルテミス像は紀元前1世紀のものですが、こちらはさらにそれよりも1世紀古い像です。
アルテミスは多産、豊穣、そして狩猟の神でもあったため、胸にはたくさんの乳房(牛の睾丸という説もあり)、胴には各種の動物に蜂なども彫り込まれていて正直、グロテスクで醜いと思ってしまいます。
これが人の欲によって刻まれた神の像です。

  あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。
          出エジプト記20:4(口語訳)

生きる神を無視して自分たちの欲求のまま望むまま、自分のために神を刻んだ結果がこの像なのではないでしょうか。

貴重な展示が並ぶ博物館を駆け足で40分くらいで見て回りましたが、やっぱり時間がぜんぜん足りませんでした。
ここから今度は聖ヨハネ教会に向かいます。


■聖ヨハネ教会跡のヨハネの墓を訪れる

今日、最後はセルチュクの高台にある聖ヨハネ教会跡とアヤスルク城です。
エフェソス考古学博物館から歩いてもたいした距離はないのですが、この時期は17:00までしか開いてません。閉まる10分前にすべり込みで入場しました。この聖ヨハネ教会跡とアヤスルク城は同じチケットで入場できますが、さすがにアヤスルク城は閉館になってました。聖ヨハネ教会跡は野外なので入ってしまえば問題なし。
この教会は2世紀前半にヨハネの名がついた墓地の上に教会が建てられたのが最初といわれており、6世紀の東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスの時代に大聖堂に拡張されたといわれています。

聖ヨハネ教会入り口
思ってたよりもかなり広い
まだまだ明るいんですけどね
洗礼槽の形は同じ
下調べ無しなので…???
この先にありそうです
これが弟子ヨハネの墓…といわれているところ
巨大なニャンコが現れた!!

弟子ヨハネの墓といわれている場所はありましたが、ヨハネが実際にここに眠っているかはかなり怪しいです。そういう意味でエフェソス遺跡の下調べには全力を注ぎましたが、ここはほとんどノーマークでしたのでヨハネの墓を確認して、後はひと通り見てまわればいいと思って来ました。


■夕ご飯を食べに

ようやく、忙しい1日を終えて一旦、荷物を預けていた宿に戻ります。荷物をピックアップした後は別なホテルに移動です。昨日、泊まった宿で夜までいさせてもらうよう交渉してもよかったのですが、シャワーを浴びて深夜バスに乗りたいので、使いやすいシャワールームの方がいいなということで別な安いホテルを昼間に予約しました。
深夜バスでは疲れがとりきれないので、ちゃんとベッドで仮眠しておこうと思ったのです。宿の世話になった主人に別れを伝えて、別なホテルにチェックイン、深夜にチェックアウトすることを伝えておきました。
あとはセルチュクの街で夜ご飯を食べに行きます。

ここで食べることにします
おすすめの牛肉料理
シイタケのチーズ焼き

ケモノ臭さにも慣れて普通においしくいただきました。トルコでは豆のスープが定番で最初はあまり味がしないと思っていたのですが、いつの間にか普通に頼むようになってました。優しい味が体になじむというのでしょうか。
野菜類も少し薄味ですがおいしいです。

もう少し街中を見たら早めにホテルに戻って仮眠します。

自家製スイーツを売る屋台 めちゃくちゃ甘い

こうして、遺跡探索などで歩き回ったセルチュクでの1日は満足の内に終わりました。楽しかったせいかそれほど疲れもなく、まだ歩けそうな感じでしたがこの後もあるので、ホテルで3時間ほど仮眠をとります。

今日も本当に感謝な1日でした。


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