映画『PERFECT DAYS』を観て。我々はなぜルーチンを守るのか?
役所広司主演の映画Perfect Daysを観てきた。
こういう余白が沢山残された映画は解釈の余地がオーディエンスに残されているので大好きだ。感性にささり、終わった後も余韻に長く浸れる素晴らしい映画だった。
※ネタバレも含みます。
「ルーチン」を守る意味
Perfect Daysは役所広司演じる「ヒラヤマ」の変わりばえしない日常を描く。公衆トイレの清掃員として働く50代のヒラヤマ。ある日、家出をした姪が家に押しかけてきたところからヒラヤマの日常が動き出す。
あらすじを書くとこんな感じだが、この映画は忍耐と集中が必要な映画だと観ていて思った。
前半はただただ、ヒラヤマの朝ホウキの音で目が覚め、缶コーヒーを自動販売機から受け取り、ミニバンに乗り込みカセットテープからその日の気分の音楽を流し職場へ向かう。都内の公衆トイレを転々とまわり清掃を行い、公園で木を眺めながらランチをたべる。仕事が終わったら銭湯により、行きつけの居酒屋で夜ご飯を食べ家路に着く。古本屋の100円コーナーで買った本を読みながら眠りにつく。そんな日常がただただ何日も繰り返される。
そういえば涼宮ハルヒでもこんな回があった。違うのは私が観ているのは女子高生ではなく、役所広司演じる渋いおじさん。
そんな文章に起こしたら、とても観ていられるものではないような気がしてくる前半だが、これが意外と観ていられる。役所広司の細かい感情を表情にうまく出す演技力のおかげだろうか。
そんな前半に際立つのがヒラヤマの「ルーチン」。ヒラヤマはとにかく自分のルーチンを守る。そして一週間を通してそれが崩れることはない。
私が解釈するに、ヒラヤマにとっての「ルーチン」とは自分を過去の辛い記憶から守るもの。
後半にかけて判明するが、ヒラヤマには父親との辛く暗い過去がある。そして病的なまでに日常をとおして自分のルーチンを守るヒラヤマは、まるでルーチンを守ることで、脳裏に辛い記憶が流入してくることを防いでいるように見える。
そんなヒラヤマのもとに、ある日家出をした姪のニコが押しかけてくる。そこからヒラヤマの日常のルーチンは見事に崩れ去る。だけれども久しぶりに姪に会えてとても幸せそうなヒラヤマ。
そしてそんな新しい日々も、ヒラヤマの妹であるニコの母親が迎えに来ることで終わりを告げる。
この母親が迎えに来るシーンが重要で、母親が乗る車は黒光りする高級車。運転席には専属の運転手。そして母親(ヒラヤマの妹)は、「兄さん本当にこんなところに住んでるの?」とヒラヤマに尋ねる。
ここからヒラヤマは裕福な家庭で育ったことがうかがえる。そんなヒラヤマがなぜトイレの清掃員になったのか?
現代の出家=トイレの清掃員
ヒラヤマは自分で掃除器具を揃え、毎日公衆トイレの隅々まで丁寧に掃除していく。そんな姿を見ていると、段々と彼の清掃へのこだわりが病的なまでに思えてくる。
ヒラヤマにとってのトイレの清掃員として働くことは、出家して禅寺の禅僧になることと同じなのだろう。
なぜか?
ヒラヤマが清掃員としてのルーチンをガチガチに敷いて、それを守りつづける生活をしているのは、過去の辛い記憶から自分を守るため。人はルーチンを守っている間は雑念が入って来にくい。ただただルーチンをこなしていれば、何も考えないで済む。過去の記憶が頭に入って来る余地はない。
これは「雑念を排除する」という意味で、禅寺の禅僧が毎日座禅を組んでやっていることと似ている。座禅は、雑念を頭から排除し、「もうひとりの私」へと飛び、悲しみや怒りの感情から解き放たれることを目的としている。
出家する人のなかには、辛い過去を持ち、そんな過去に絶望し、心の安寧を得るためにそうする人もいる。ヒラヤマが裕福な家庭を出て清掃員になったのは、そういった「出家」としての意味合いがあるのではないか?
そしてヒラヤマが病的なまでに清掃にこだわるのは、掃除をすることで自分の過去も「浄化」しようとしているのだろう。過去の辛い記憶を消しさりたいがために、便器を磨き続ける。そういった暗喩的な意味合いがあるように感じられる。
「影」を持った二人
後半にかけて、三浦友和演じる、がんになった余命僅かの男が登場する。そんな男がふと、「影と影が重なったら、その影は濃くなるのだろうか?」とヒラヤマに問う。
分からないなら試してみよう、と街灯に照らされた二人の「影」を重ね合わせるヒラヤマ。だが一向に重なった影が濃くなっている気配はない。
「もうやめよう、やっぱり影は重なっても濃くはならないよ。」と言う男に対して、「影が重なったら濃くなるはず。変わらないわけがないじゃないか!」と言葉を振り絞るように言うヒラヤマ。
このシーンを解釈するに、がんで余命わずかな男、と辛い父親との過去を持ったヒラヤマ、そんな暗い過去つまり影を持った二人が出会ったらどうなるのか?という問いへの暗喩であるとかんがえられる。
ではなぜヒラヤマはそんな二人の影が重なれば濃くなるはずだと言ったのか。この問いに明確な答えはないと思う。私が思うには、ヒラヤマは、暗い過去を持つ二人が出会えば、お互い何かしらの変化は起きるのではないか?という期待があったのだろう。
そんな二人は「影踏み」をして遊び始める。良い年したおじさんが夜の川沿いで影踏み。しかもヤクザ映画?で知られている二人だからこそより面白い。
そして過去と向き合い始める
そしてヒラヤマはこのがん男との出会いを期に、過去と向き合い始める。
姪のニコと話しているときに顕著だが、平山の矢印はつねに未来もしくは現在に向いていた。それはヒラヤマがニコに繰り返し語った「今度は今度、今は今。」という言葉から分かる。彼の矢印は決して過去に向くことはなかった。
しかし、がんの男との出会いを期に、ヒラヤマの矢印が過去に向き始める。
そして最後のシーン。
「Feeling good」を車内で流しながら職場に向かうヒラヤマは苦痛に満ちた表情で泣き続ける。そんな車の外では快晴の空に日が昇る。
がん男との出会いを期に、ヒラヤマは自分の過去と向き合い始めた。向き合うとまではいかなくても、日々のルーチンを守っている間も、それを破り、
過去の辛い出来事に対する感情があふれるようになった。
It's a new dawn
It's a new day
It's a new life
For me
And I'm feeling good
「Feeling good」の歌詞は新しい日々の始まりを告げる。
ヒラヤマが辛い過去と向き合い始めた、という意味での新しい始まりの日、new dayそしてnew lifeなのだろう。
(Feeling goodはとても好きな曲。良い味を出してた。)
我々はなぜルーチンを守るのか?
ヒラヤマにとってルーチンとは、辛い過去の記憶から自分を守るためのもの。ルーチンさえ崩れなければ、過去の暗い記憶が脳裏によぎることはない。
対して、私は根っからルーチンが嫌いな人間だ。同じ道を通るのは嫌だし、つねに昨日とは違うことをしていたい。つねに何らかの刺激を日常から得ていたい。
ルーチンには様々な意味合いがあると思う。私の友人にルーチンが大好きな人がいる。彼いわく、ルーチンを守ることで、日々の生活を自分がコントロールできているという快感があるそうだ。
やはりルーチンを守ることで心の平穏を守るということは、禅僧のように限りなく頭の中から雑念を排除する、ということに似ているように私には感じられる。ルーチンを守ることは一種の瞑想手段なのではないだろうか。
あなたにとってのルーチンの意味はなんですか?
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