日記【体の正直、心の正直】
昨年の7月から続いた肺炎の繰り返しも、今日の診察でひとまず一区切りとなった。
3ヶ月ぶりのCTで見た肺のもやもや影は、無治療でうんと小さくなっていて
先生曰くこれはカサブタのような状態で、悪さをしなくても一生残るらしい。
結局、昨年の半年のうち3回続けて発症した肺炎は器質化肺炎(原因となった何らかの物質を肺が体の一部として取り込んでしまった)だと思われるらしいのだけれど、
確定診断とするためには気管支鏡での検査が必要だった。
これがもうビビりの私は本当に恐ろい。
内視鏡だってやったことがなくて、気管支鏡について調べたら「そもそも空気しか通らない気管に管を通すなんて苦しいに決まってますよね」みたいなことが書いてある。
昨年末、腹を括っていざ、検査入院の同意書を出すぞ…と覚悟した診察で、今度は肺炎の方がビビったのか(主に似るのか?)一気に影を消してしまい
結局、気管支鏡検査は再発時まで見送ることになった。
次また症状が出たら、その時は覚悟を決めないといけない。
今回、肺炎を繰り返したことがきっかけでかかりつけ医から総合病院に送られることになったのだけれど、
その一連の検査で腫瘍マーカーの数値までアレやこれやと引っかかってしまい
膵臓癌、肝臓癌、卵巣癌、可能性のあるものが次々検査対象に追加された。
結果としてはそれらの血液の数値も高いものの、その後急激な上昇はみられず、結局は肺の良性疾患が影響したのだろうということで、
癌の可能性を細かい検査で潰してくださって、ひとまず安心できている。
先生が淡々とした人ながらこちらの事情も先回りで汲んでくれたり、不安なことも全部パパパと分かりやすく説明して下さったので毎度安心と信頼の通院だった。
結局は大事ではない病気で入院もせずに済んだけれども、ここまで身体を壊したのは初めてで
大袈裟すぎるかもしれないけれど、そうか、人っていつか死ぬのか、と。
そういう実感もなく生きてこれたなんて、なんと有り難く呑気なものだろう。
やはり普段、本当にそんなこと忘れている。
日常の、元気な時にそんなわざわざ死を自分から意識していたら辛くなるから忘れていて然るべきなんだろうけれど。
当たり前のように、育児とか、働き方とか、将来のことを悩んでいる。
生きていることは大前提。
この腫瘍マーカーの数値は放っておけないですね。アレと、アレの可能性を判断するために追加で検査します。結果は後日。
なんて言われた日には、やはりどうしても色々考えてしまった。
大変大変とこぼしながら慌ただしく過ごしている毎日も当たり前じゃない。
ここまできてやっと、自分の今後の人生の優先順位が綺麗事抜きでストンと落ちて来る。
子供が欲しいと思った。
いざ、自分の病気の可能性がちらついた時に今いる家族を一番に考えるべき所を、子供が欲しいなんて贅沢かもしれないけれど…
っていうのが、私の理性。
ただ、本当にそんなことは言ってられないって状況を具体的にイメージできた瞬間、一番に出てきたことがそれだったんだから
もうそれは本音だよ。
理性も綺麗事も他人の目もない、本音。
結局、春からまた働く環境も変えたりして、
今は本音のままに、自分の人生の選択の一本軸になっている気がする。
身体を壊すまでしないと心の声に気づけない。
健康だからこそ、自分の身体以外の部分に目を向けて悩む時間があったのか。
ひとまず、病院に通う内に揺れにゆれた心境のあれこれを覚えてる内に記録。
息子が横でムニャムニャ言いながら転がってきた。ありがたみを噛み締めている。
なんにしてもね、健康を保つことは年々大事になって、年々難しくなる。
最近口癖のように健康が何より、なんて言うのは30超えたからちょっと年増ぶってみている訳じゃなくて、こうして心の底から実感したから。
CTしたり、血液10本取ったりして、仕事は休むわ、諭吉は飛ぶわでね…
体が資本って、
そうかそういうことか。
そんな前厄だったもんだから、今年の本厄は誰よりも身構えていて
同い年の友人たちと集まる度に注意喚起を促す厄年アナウンス係になっている。
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