大いなる巡りの中に
巡りの中に
身を委ねる。
それが怖かった。
自分を失うのではないか。
自分は損をするのではないか。
「自分」がそれを怖がった。
そこに「自分」が生まれた。
そんな「自分」を成り立たせるため
自分と他のあいだに境界線がひかれ、
全体の一部だった自分が、切り離される。
望み通り「自分」が生まれる。
なのに何故だか、安心できない。
他人の幸せを喜ぶことができない。
幸せの総数が決まっていて
僕が幸せだと誰かが不幸せで
誰かが幸せだと僕の幸せが減ってしまう。
世界がそんな風に見えてしまう人が、幸せなわけがない。
そんな経験をし、何かおかしいなと思うようになる。
もしかしたら
自分を大切にすることで生まれる「自分」が
幸せを遠ざけている原因なのかもしれない。
幸せになろう!と自分を守ること、
自分と他人を区別すること、
ことさらに自分を強調するといった
自分のためにやっていたことが逆に自分を苦しめていたのかもしれない。
良かれと思ってやっているから、タチが悪い。
だから、誰かが言うことを鵜呑みにするのではなく
やってみて、それが本当に良いのかどうか
頭ではなく、心で感覚を追って、自分にとってどうだったのかを問うてみるのが大切だ。
欲を満たしてみたり、
一人で勝ったこともあったし
美味しいものを一人でたらふく食べたこともあった。
でも、自分ひとりの欲を満たしてみてわかったのは、
そんな幸せは、掴めたと思ったら手の中から消えてしまい
次の幻想が生まれる欠乏の道を歩くと言うことだ。
人生の幸せハイライトで思い浮かぶのは
誰かと一緒にご飯を食べることだったり
誰かに美味しいご飯を作っている時だったり
誰かが困っているただその時に出会い、何か自分が生かされた時だったり。
どうしようもない危機の時に誰かが手を差し伸べてくれたり
それは言葉を変えれば
自分と、他人の幸せがつながっている時。
自分と、他人の痛みがつながっている時。
自分と全体が、ひとつの存在となっている時。
巡りの中に、己を差し出している時。
そんな記憶は、今でも僕の内側で
エネルギー源となってくれている。
生きている中で、何かに動かされ
誰かを見返りなしに、応援したくなることがあった。
おそらくそれは
見返りを求めず
自分も含めた全体のために
命を燃やして生きる人から伝わる「愛」なんだと思う。
言葉だけでなく
行動、そのあり方、存在から放たれる「愛」。
己のことなど見向きもせず忘れてしまい
全体にとって、いま何が足りてないか。
誰かが傷ついてしまう可能性があるトゲは出ていないか。
バランスが悪かったり、危なかったり、未来に向けて埋めといた方がいい穴は、無いか。
そんなことを見て、動いている人たちの姿が
僕の中に温かいものを流し込んでくれ、
僕の中からもそれが生まれるような呼び水となり、僕を突き動かす。
誰がはじめたなど、そんなことはどうでもいい。
知ってる人だけ愛するという
小さな枠に収まるのでもなく
生きとし生けるもの全体への
敬意と、それから「愛」をもって存在すること。
強制されてとか、それが正しかったり美しいとされるから
愛を生きるのではなく
ただ自然にあることが愛そのものという
そんな存在のあり方。
その存在から放たれる波紋のようなバイブレーションは
愛を感じて感応する仲間を増やし
全体に対して己を捧げ、そうやって「己」を浮かび上がらせる
千差万別なUNITY仲間が増えれば増えるほど
このパーティ、お祭りは、楽に楽しく色とりどりになっていく。
結果ではなく、その道のり。
そこが、最高に楽しいし、Creative,
そしてArtなんじゃないかと感じている。
そうやって、波紋が拡がり、自然と愛が広まる。
四方八方囲まれて、真っ暗闇に一人いる時
誰かしらあ明かりを持ってやってきて、
その時必要な手を貸してくれる。
そんな世の中だったら
もし僕が一人真っ暗闇にいた時、助かるし
きっと誰かが助けてくれるでしょと分かっていれば
恐れなく、安心していられる。
だから、僕は、愛に生きることを選ぶ。
自分のために、みんなのために。
と同時に誰のためでもなく。
お金持ちになったり、有名になったり
そんな幸せを遠ざけるものの為ではなく
ただただ『この世はなんてマジカルで素敵な場所なんだ!』と
涙が溢れてしまうような日常を誰もが送れる世界の可能性を見るために。
愛と平和が、言葉や理念を超えて
世界を包み込むまでの道のりの一部を味わうために。
お金のために何かをするのではなく、好きなことをしたことでお金を頂戴できると幸せです。僕という人間の存在に対して、サポートをしていただけたら、それほど嬉しいことはありません。よろしくどうぞ!