不快感や不便さを感じてまで多様性を高めることはなぜ重要なのか。
※今回の画像は、先月行った神戸で食べたコロッケです。神戸のコロッケでもかなり有名だそうで、閉店前もめちゃ並んでいました....激ウマ!
どうもこすけです。レポート課題に追われる今日この頃です。大変だ...。
ということで今回は、多様性を高めることはなぜ重要なのか、について最近の葛藤を気持ち書き残したいと思います。
自分は今、仲間と福祉の建築のコンペに出そうとしています。その中で、福祉に向き合うということは多様性と向き合うことなのではないか、ということで、多様性について考えています。
「障害」や「人種」「ジェンダー」といった、ラベリングによって浅い形で表出された多様性が社会に溢れてあると感じます。
ですが、多様性を考えるということは、異質な他者との不快感と向き合いつつ、異質さ(これはグラデーションだと思うが)をどう寛容に受け入れていくのかと向き合うということだと思います。もしくは受け入れという受動的な形ではなく、どうそれをプラスに捉え、積極的に求めることができるのか。
では、そもそも多様性を高めることは何故必要なのか。
この前友達と、某有名中華チェーン店に行った時に、おそらく案内されずに勝手に入ってきたと思われるお婆さん二人が、「水が来ない」と店員に怒り出し、持ってきてもらった水に対して「水が少ない」とさらに怒り、しまいには隣の空席にゴミを3つほど投げていました。
多様性を受け入れるということは、「マナーに対して寛容になることなのか」。
ではマナーとは何か。日本では家に入る時に靴を脱ぐことはマナーです。しかし他の国ではそれが逆の場合にもなる。
どこまでを「異文化」として受け入れ、どこまでを「モラルの欠如」として認めないことを認めていいのか。異文化も結局はグラデーションだと思っていて、店員に対して感謝を伝えることをマナーだとして捉える人もいれば、「金を払っているのだから怒号をあげてゴミを投げてもいい」と考える人もいる。
また、その際に「店員に対しては感謝を伝えるべきだ」と考える人が必ずしもマジョリティーとは限らない。加えて、文化に普遍性があるものはないと思っている。文化に普遍性はあるのか。
結局今は「民主主義」を語りつつも、それは多数決による数のゲームになっているのではないか。文化のすり合わせの対話はどこまでなされているのか。
しかしながら、対話ができる人だけで世界は構成されているわけではないとも思う。そもそも身体的な理由からコミュニケーションが取れない人もいれば、態度として対話へのレジリエンスがなく、怒りや暴力でプロセスを閉じようとする人もいる。それはエリート主義的な発想ではなく、誰もがそのようにプロセスを閉じる可能性だってある。政治という場において構築的に人をそうさせる場面が多く見受けられるように。
話は戻り、このnoteのタイトルでもある、「多様性をなぜ高めるべきなのか」という問いに対してどのような意見を持つことができるのだろうか。
自分が最近聴いているとあるpodcastでは、「美徳」だと捉えている人がいた。一つの答えになるのかもしれない。だが直感的には、美徳という理由だけで片付けていい気もしない。異文化を受け入れるということは時に不快感が付き纏うものでもあるからだ。不快感を背負ってまで多様性を高めるということはもはや一つの信仰なのかもしれない。
とは言いつつ、そもそも「多様性」とは何か。
昨日、現代実在論とポストモダン思想の対立から普遍性の獲得と実在の検証を考える本の発表を大学の授業で担当した。その際に先生にいただいたご指摘として、「多様性の対義語から考えてみる」という視点をいただいた。自分は多様性の対義語として「同質性」と捉えていたが、先生が改めて語源から探ってくださったのは「普遍性」。なぜなら、多様性はdiversityであり、英語での対義語はuniversityだから。それをもとに多様性を考えてみるのも面白いかもしれない。
また、その発表を通して、障害やジェンダーといった属性で限定せずに、包括的に多様性に寛容な社会をつくるためには、心のデザインだけでなくモノや場のデザインも同時に考えていく必要があると感じた。一部の自己満足的な理想を語る場で終わらせてはいけないと思う。(だからこそ建築のコンペにはワクワクが湧いてくる。)
種族が生き残るために同質性を高めた方が種として「効率がいい」のではないか。にもかかわらず人間が多様性を求めるという逆進性を生み出すのはなんのためか。
ひたすら発散してしまいました...。視点が無限に浅いと思うのでご意見、ご指摘、ください、、、!
それではまた5日後に👋