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『アンチヒーロー』~そこで引き返すことができるか?

ようやくドラマ『アンチヒーロー』最終回までたどり着きました。検察による冤罪という、我が国司法に現実に存在する闇に切り込み、それを迫力あるエンターテインメントとして仕上げたドラマに感服しました。(以下、ネタバレご容赦ください。)(見出し画像は番組HPより引用。)

あらすじ

主人公は、12年前の事件で無実の人間に自白を強要し、それによって死刑判決を受けさせてしまった元検察官・明墨(あきずみ)(長谷川博己)。それが冤罪であったことに気づいた彼は、その後弁護士に転身し、彼に再審を受けさせ、無実の罪を晴らすことを目指します。

そのため、彼は事務所を開設し、雇った弁護士やパラリーガルの協力を得つつ、当時冤罪にかかわった刑事、裁判官、検察官を追い込んでいく。そしてラスト、明墨は自らが被告となった法廷で、本丸の東京地検検事正伊達原(野村萬斎)と対決します。

「アンチヒーロー」とは?

当初、明墨は自らの意図を周囲に明かさずに行動します。従って、私たち視聴者にも、彼の意図するところはなかなかわかりません。

特に、劇中の最初の事件で、依頼人が有罪であるという心証を得ているにもかかわらず(そして事後にその証拠があったことも判明します)、弁護によって一審無罪を勝ち取ります。そのことは正義感の強い部下の弁護士赤峰(北村匠海)に不信感を与えることになります。

ここで私たちは、「アンチヒーロー」というのは、「正義を曲げても依頼人の利益のために活動する弁護士」という意味なのだろうかと考え始めます。しかし、ドラマが進むうちに、それともちょっと違うとわかってきます。

確かに明墨は、弁護を行うにあたって、証拠隠滅、脅迫、捏造など、ありとあらゆる手段を用いていきます。しかし、他の弁護士から不自然に仕事を奪ったりと、依頼人の利益を第一にするという理念だけでは説明がつかないことが多く描かれていきます。そして徐々に、劇中で描かれる事件への明墨の関与のすべては、12年前の冤罪事件を掘り返すためのものであったことがわかってきます。

つまり、12年前の事件で自らが関与して死刑判決を受けさせてしまった受刑者志水(緒方直人)の無実を証明するために、違法ぎりぎりの活動を行って当時の関係者を追い込んでいく。というより、ほぼ明らかに違法行為なのですが、そのような手段でもとらないかぎり、権力に守られた人間の不正を暴くことはできない。その考えのもとに動く明墨の姿を「アンチヒーロー」と呼ぶのだとわかってきます。

最終回の長谷川博己と野村萬斎の法廷劇は出色です。単調になりがちな長台詞を、二人はそれぞれに巧みに緩急をつけて、私たちを引き込んでいきます。汚れた検事と汚れた弁護士の対決。薬物についての捜査上の扱いについて、伊達原が明快に説明しきったと思わせた直後の、明墨によるどんでん返し。すばらしい迫力でした。

検察による冤罪という闇

さて、この検察による冤罪と言う闇。これについては、何らフィクションではなく、現実にこの国に存在しています。

’10年に冤罪が明らかになった郵便不正・厚生労働省元局長事件(村木事件)は世間を大きく騒がせました。この事件では、村木局長は164日間身体を拘束されて取り調べを受けましたが、裁判(一審)の時点で検察官による証拠改ざんが明らかになり、無罪となりました。

このように裁判の時点で冤罪が明らかになる事件がある一方で、現在も再審で争われている袴田事件など、死刑判決確定後に冤罪の疑いが出ている事件もあります。

『アンチヒーロー』は、このような闇に切り込んで、

「もし、冤罪にかかわってしまったことを悔いる検事が、当時捜査を指揮した検察幹部の不正を暴き、無実の人間を解放することができるとしたら」

という想定のもと、あらゆる想像力を駆使して組み上げた、痛快なエンターテインメントと言えるでしょう。

冤罪の証拠となる画像のハードディスクを、伊達原検事正が狂ったように革靴で踏みつけて破壊する場面など、非現実的ではあっても、ドラマ的な演出としてとても楽しめます。何よりも、村木事件の際のフロッピーディスク改ざんを思い出させる場面でもあり、痛烈な皮肉を感じさせます。

シナリオが狂うこと

事件捜査を行うにあたっては、ある程度のシナリオが必要なことは理解できます。何らの方向性もなく、やみくもに捜査しても、時間ばかり渡過してしまい、効率的な捜査はできないでしょう。

ただ、当然ながら、想定したシナリオどおりではなかったことが判明することはあるわけです。それが早い段階でわかると良いのですが、シナリオが緻密に想定されていればいるほど、かなり捜査が進んで、時間が経過した後で間違っていたことがわかるわけで、その場合は困難な判断を求められるのでしょう。

捜査に携わる刑事や検事は、シナリオで特定された加害者を、「追及すべき悪人」ととらえ、いわば仮想敵のように、心の中で睨み続けてきたわけです。なかなかその心の中を切り替えることも難しいでしょう。それに、検察上層部からの圧力、自らの出世への影響もちらつき、むしろ、シナリオを否定する事実の存在に目をつぶってしまうかもしれません。それよりは、自白を強要して、不都合な事実を上書きしようとするかもしれません。

特に、世の中から早い解決を期待される重大事件であったり、重要人物の関与が疑われその逮捕を世間が期待するに至っていると、今さら「いや、そうではないようだ」と簡単に言えるでしょうか。そこで誤りを認めて、それに対する批判を受け入れ、捜査を初めからやり直すことには相当なハードルがあります。

引き返すチャンス

『アンチヒーロー』では、検察は志水を犯人と信じて疑いませんでした。十分な証拠が出てこないものの、この悪人を野放しにしてはいけない。ある種の正義感だったのだろうと思います。そのために、鑑識報告を捏造させ、証拠をでっち上げたのです。

その後、志水が犯行時刻に別の場所にいたことを示す画像が存在することがわかった時、もう引き返せませんでした。志水の拘留中に志水の妻が交通事故で亡くなっており、もし志水が無実だったとわかれば、世間から湧き上がる検察に対する非難は計り知れない。そう考えた伊達原は、証拠を隠滅したのです。

「検察に対する非難」というのは、捜査を指揮した「自分に対する非難」に他なりません。つまり専ら自らの保身のために、無実の人間を死の淵に追いやったのです。

私たちは、自分や家族を守るためには、できる限りのことするでしょう。それがもし、命を守るために必要なことであれば、なおさらです。しかし、自分の立場、名誉、出世、財産、そういったもののために、他人の命を犠牲にすることはもちろん、正義に反することを行うことは許されないわけです。

そんなことは、正義を追い続けてきた検事なら百も承知なわけです。しかし、伊達原は、画像を隠滅することを選び、正しい道に引き返すチャンスを失ったのです。もちろん鑑識報告を捏造させた時点で、彼は道を誤りました。ただ、その時点では、彼は正義感にかられて、その行動に出ていたわけです。しかし、画像の隠滅は、それが正義に悖るとわかっていながら、専ら保身のため行ったことです。

彼の行いは決して許されるものではありません。ただ、誰もが明墨のように強いわけではありません。というよりむしろ、私たち人間は本当は弱いと言わざるをえません。伊達原のような弱さを、皆持っているのではないでしょうか。

もし自分だったら、そこで引き返す勇気があるのか。それをチャンスととらえて、正義の道に戻ることができるのか。

それを考えずにはいられませんでした。


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