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サクラを見て思い出す

毎年どこかしらで桜を見れる。
鎌倉だったり上野だったり、今年はドイツのミュンヘンだった。
その度に思い出す、ある高校同期

彼は「桜はあんなにも咲いているのに、見向きもされないことが美しい」と以前言っていた。
ああ、なんと美しい言葉だろう…
僕もいつかこんな言葉を紡いでみたい。

サクラを見るたびに彼を思い出す。
サクラを見て「諸行無常」や「盛者必衰」を思い出す自分。
これは桜の散りゆく様子や、春だけ注目を浴び、残りの季節はただの木となるところからのただの“連想”だ。
“連想”であり“分析”でしかない。

冷静に考えると僕は”分析”しかできない。
”言葉”があって”現象”を紐づける操作。
もしくは逆に”現象”と”言葉”を結ぶ。

それは無機的で、抽象化したり具体化するだけの、レンズのフォーカスを調節する操作。
カメラの視点を変えることはできるけど、対象自体に手を加えることはできない。
遠くから近くから、でも決して触れることだけはない。
そんな超えられない壁の向こうからシャッターを切る。

ただ彼の操作は違う。
とても有機的で、彼なりの美学がある。
彼の紡ぐ言葉には、確かに”彼”がいて、色味がある。
僕がカメラを持つのであれば、彼はキャンパスに自由に色を走らせる画家。
彼の眼を通して”現象”は形どられ、変形し、より美しくキャンパスに現れる。

高校同期の中で唯一敵わないやと思ったのは彼だけだった。
大学に入っても彼を超えるような人とは出会えなかった。
彼の才能に羨望し嫉妬し憧れる。
そんな複雑な感情を植え付けたのは恐らく彼以外には今後も出てこない。

僕は彼を天才とは呼べない。
彼の苦悩を傍で見たことがあるからだ。
自らの血肉を削ぐような思いで言葉を生み出す。
そういった言葉たちが彼の人生を物語る。

世間が彼のことを認知するのにはそう時間はかからないだろう。
いや、もう少しずつ認知し始めている。

ただ、世間が天才と彼を褒め称える日が来ようとも、僕だけはその陳腐な表現は使ってやったりはしない。
それは彼への敬意であり、隣に立ったことがある僕の特権だ。

とはいってもこの感情は僕の片思い。
きっと彼は僕のことを友人とギリギリ思ってくれるかどうか。
いつか彼と肩を並べられるように自分は努力しよう。

「あんときはそんな大した奴じゃなかったじゃん。」
そう言ってもらえるように。

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