2024年8月の記事一覧
[いだてん噺]モスクワへ(1414文字)
1926年(大正15年)7月21日ー。
絹枝たち三人(大阪赤十字社病院長の前田松苗院長とベルリンに留学に向かう早大建築科の今井謙次助教授が同行)は、モスクワに向かった。
モスクワへは、ハルピンから8日間の鉄道の旅になる。
絹枝たち三名は、列車での旅の間、まるで家族であるかのように親しんだという。
(また自伝では新進思想家の胡適氏と、ブロークンな英語で話しをするようになった、とも記され
[いだてん噺]ハルピン(2100文字)
1926年(大正15年)6月ー。
スウェーデンのイエテボリで開催される『第二回国際女子競技大会』への参加を薦められた絹枝だが、最初は断っている。
だが最後は押し切られ、絹枝は1926年8月27日から開催される『第二回国際女子競技大会』に参加することになる。
絹枝はより強い緊張感をもって練習に取り組んだ。
『第二回国際女子競技大会』参加が決まってからは、毎日のように送別会が開かれ
[いだてん噺]世界へ(2083文字)
1926年(大正15年)4月ー。
絹枝は大阪毎日新聞社(大毎とも略される)に入社する。
1926年(大正15年)6月7日の大阪毎日新聞社 社内報に絹枝の入社時の気持ちを綴った一文が掲載されている。
アスリートとしての絹枝の才能に疑問を持つ者はいなかったに違いないが、新聞記者として文才の適正があるかどうかについては、一抹の疑問を抱いた者はいたのかも知れない。
しかしそれは杞憂であったこ
[いだてん噺]決断(1407文字)
1926年(大正15年)1月15日。
二階堂体操塾は学校名を『日本女子体育専門学校』とすることとし、文部省に申請を行った。
1926年(大正15年)3月24日。
文部省から昇格の許可がおりる。
二階堂体操塾は、日本最初の女子体育専門学校となった。
二階堂トクヨと絹枝は手を取り合って泣いた。
もっとも、絹枝は自伝の中で正直な気持ちを書いている。
絹枝は『日本女子体育専門