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[いだてん噺]二十三日間09(810文字)
スウェーデンのエテボリーに着いて11日目から13日目、8月14日から8月16日の3日間、絹枝は脚の痛みなどの為に、練習を休んで休養につとめている。(3日間、マッサージも受けていた)
自伝に『元気恢復した』と書かれている8月17日の午後1時から練習を再開している。
天気の良い日で、『スウェーデンに来て以来、こんなに気持ちのいい日は初めてだ』と自伝に記されている。
数日間休んだためか、ス
[いだてん噺]二十三日間08(1280文字)
スウェーデンのエテボリーに着いて10日目、8月13日。
8月10日から痛みがあった『前股筋が痛んで仕方ない』と絹枝は自伝に記している。
この前股筋の痛みは、前年の10月1~3日に開催された、第2回明治神宮競技大会の前日に、あまりにも過度な練習をしたために痛めたもので、『少し練習が過度になると必ず出て来る』というものであった。
黒田乙吉が止めるのもきかずに、絹枝は練習に出た。
少々の
[いだてん噺]二十三日間07(1239文字)
スウェーデンのエテボリーに着いて9日目、8月12日。
『昨日一日の休みをとったので今日は大変元気がいい』と絹枝は自伝に記している。
但し、長い列車の旅の影響か上歯全部が浮いているような気がしており、この日の朝食を終えた後には、上顎の臼歯が痛み出し、歯科医で応急手当を受けている。
また円盤投げは、初めて取り組む競技なので、勝手がわからないながらも、成果は出ていた。
円盤投げの方が
[いだてん噺]二十三日間06(1566文字)
スウェーデンのエテボリーに着いて7日目、8月10日。
この日、絹枝は地元のスポーツ用品店に行き、槍、円盤、巻き尺を購入している。
『巻き尺の安価で丈夫なことには驚いた』と記している。
昨日、練習をし過ぎたためか、マッサージをしなかったためか、右足の股関節が痛み、スタートの練習は行わず、走り幅跳びも1回のみで切り上げている。(円盤投げは30メートル81が出せた)
練習は早々に打ち
[いだてん噺]二十三日間05(1821文字)
スウェーデンのエテボリーに着いて6日目、8月9日の午後ー。
大会の競技プログラムは、おおよそこのようなものだと、大会委員長のドクトル・リリエの元に赴いていた黒田乙吉が、ホテルに帰って絹枝に報告した。
[二十七日]
入場式、
百ヤード走、
二百五十メートル走、
円盤投、
ボール・ゲーム(スウェーデン対ユーゴ)、
走高跳。
[二十八日]
百ヤードハードル、
走幅跳、
槍
[いだてん噺]二十三日間04(1821文字)
スウェーデンのエテボリーに着いて5日目、8月8日ー。
この日は、午後1時までの練習を許可されたため、絹枝は午前11時から練習に出かけている。
800mの軽いウォーミング・アップを試み、ちょっと苦しいなという感想がしたという。
そしてスタートの練習に入った。
この日は日曜日であったからか、いつも通る森林公園は人でいっぱいになっていたと絹枝は記している。
当時、日本では日曜に家族そ
[いだてん噺]二十三日間03(1513文字)
スウェーデンのエテボリーに着いて3日目の8月6日ー。
この日は、午後4時から練習に出かけている。
スウェーデン語のスタートに使われるフレーズにも慣れて来たことが自伝に記されている。
今大会の練習で初めて取り込んだ円盤投げについては、『少しずつ入念に研究的に』取り組みを始めている。
また最後に、『マッサージのおかげか練習の疲れも出ない』と記されていた。
『脚の筋肉がはなれてしまう程
[いだてん噺]二十三日間02(1513文字)
スウェーデンのエテボリーに着いて2日目の8月5日ー。
朝9時に通訳のマルチソンが、絹枝とマネージャーの黒田乙吉の写真が載っている新聞を持ってきた。
新聞に写真が掲載されたためか、絹枝は朝10時頃に日本領事館を訪ねていているが、自伝には『町を歩くと人が見て困る』と記されている。
『中には「あ、あれがヤポン(=日本)のチャンピオンか」と言っているのが耳に入ることも度々ある』とも記されてい
[いだてん噺]二十三日間01(1266文字)
絹枝とマネージャーの黒田乙吉、通訳のマルチソンの3名を乗せた車は市の中央にある森林公園の間を縫って進み、20分ほどしてスロットスコクス競技場の正門前に着いた。
開催国スウェーデンとともに日本の国旗が翻っていた。
絹枝が外国選手の到着第1陣だった。
3人が事務所に行くと、大会委員会の面々はすでに顔を揃えていた。
通訳のマルチソンが、大会委員長のドクトル・リリエに絹枝を紹介した。
尚
[いだてん噺]エテボリー(1337文字)
(※都市名は、人見絹枝自伝に記されているエテボリーに統一)
絹枝の自伝にはそう書かれている。7月8日から一ヶ月近くをかけて8月4日、絹枝はようやくスウェーデン第二の都市、エテボリーに着いたのだった。
昨日、スウェーデンの首都ストックホルムで、日本公使館の者から、『日本の東京がこのストックホルムだとすれば、明日あなた達の行くエテボリーは大阪のような工場市です』と絹枝は聞かされていた。
だ
[いだてん噺]モスクワ滞在(2/2)(1137文字)
森林公園の中にある運動場では、マトロスモク所長とシケルバコ書記長が手配したのであろうか、5名の女性が絹枝と一緒に走るために待ってくれていた。
さっそく絹枝は練習を始めた。
2時間ほど練習したあと、黒田乙吉の家に戻り、その日の夜は11時過ぎに床についた。
ロシアに対して誤った先入観を持っていたことを、絹枝は反省するのだった。
1926年(大正15年)7月31日の朝。絹枝に、体育会議所か
[いだてん噺]モスクワ滞在(1/2)(1357文字)
1926年(大正15年)7月29日ー。
モスクワについた絹枝は、大阪毎日新聞社モスコー(モスクワ)特派員の黒田乙吉に案内されて、ホテルに入った。
久しぶりにまともな風呂に入れた絹枝だが、ホテルは翌日早々に出て、黒田乙吉の家に入っている。
自伝で、以下の様に記しているが、ひとりきりでホテルの部屋にいるのは不安であったのだろう。
練習がしたいと願う絹枝は、黒田乙吉と共に、町の各種旅行者案
[いだてん噺]モスクワへ(1414文字)
1926年(大正15年)7月21日ー。
絹枝たち三人(大阪赤十字社病院長の前田松苗院長とベルリンに留学に向かう早大建築科の今井謙次助教授が同行)は、モスクワに向かった。
モスクワへは、ハルピンから8日間の鉄道の旅になる。
絹枝たち三名は、列車での旅の間、まるで家族であるかのように親しんだという。
(また自伝では新進思想家の胡適氏と、ブロークンな英語で話しをするようになった、とも記され
[いだてん噺]ハルピン(2100文字)
1926年(大正15年)6月ー。
スウェーデンのイエテボリで開催される『第二回国際女子競技大会』への参加を薦められた絹枝だが、最初は断っている。
だが最後は押し切られ、絹枝は1926年8月27日から開催される『第二回国際女子競技大会』に参加することになる。
絹枝はより強い緊張感をもって練習に取り組んだ。
『第二回国際女子競技大会』参加が決まってからは、毎日のように送別会が開かれ