弱い教員は要らない
学校で働いていると、最近の子どもは過保護であると感じることが多々ある。
昔と今とを比べて、その変化を嘆くということ自体はよくある話だが、
昨今の『子どもへの過保護』というのは、非常に目に余るものである。
給食は無理に食べさせなくなったり、
暑すぎて熱中症指数が高まったら水泳の授業は中止になったり、
児童生徒にら実施した、いじめに関するアンケートに書かれたことは、たとえ「〇〇さんにバカと言われた」という内容であっても、全件事情聴取&報告をしなければならなかったり、
挙げればキリがない。
しかしこれは、安心安全な学校の実現や児童生徒の多様性に対応する上では、至極当然な変化であり、とても良いことである。
しかし、変化には必ず良い面と悪い面がある。
過保護になることの悪い面は、ずばり『子どもの弱化』である。
だかこれも、もう何十年も前のトピックである。
教育現場の人間達がこぞってこの悪い面から目をそらしたために、次に新たな問題が生まれることとなった。
それは、『大人の弱化』である。
弱化した子どもがそのまま大人になってしまうのだから、当たり前と言えば当たり前だ。
弱くても生き抜ける良い社会になったと考えれば、それもまた悪いことではないのかもしれない。
しかし、この『大人の弱化』の学校教育の現場にも大きな影響を与えている。
一番の問題は、弱化した大人が教員となることで、強さを教えられる者がいなくなってしまったことだ。
弱い大人は子どもが抱える問題や危険に対して、逃げ方や自分の身の守り方ばかり教える。
しかし、『逃げる』『守る』は戦術の一つであり、本質的には『戦うこと、問題に打ち勝つこと』を教えなければならないのだ。
今の教育にはその点が欠如してしまったのだ。
どんなときに戦いか、どのような時に逃げるか。どのように守り、どのように攻めるかが大事なのだ。
しかし。弱い大人はもはや戦うべきときがわからない。
だからひたすらに守って逃がして、子どもを弱化させてしまうのだ。
子どもたちを強い人間に育てるには守るだけではだめだ。
戦うべき瞬間を見極めて助言し、もちろん守ってあげなければならない瞬間は見逃さない。
教員にはそういったギリギリを見極める洞察力が必要なのだ。
子どもたちへの過保護がもたらす悪影響は、すでに最終段階をむかえている。
それが『社会の弱化』だ。
そろそろこの流れを止めなければならないのではないだろうか。
ぜひ教員一人ひとりに考えてほしいものである。