『考える』を知らない教員は要らない
学校では子どもたちに考えさせる場面がたくさんある。
毎時間の授業の中だけでなく、学校生活の至る所に存在する。
教員らは皆、子どもたちに
「よく考えましょう」
「みんなで考えましょう」
「考える事が大切」
などと声をかける。
それは教員らは子どもたちに考えさせたいからだ。
では『考える』とはなにか。
普通、人間は常に考えて行動している。
「今日の朝は何を食べようか」
「何時に家を出ようか」
「友達と何して遊ぼうか」
「放課後誰と遊ぼうか」
逆に、考えなければ行動できないはずだ。
だから、全ての『考える』が子どもの成長にとって大切なら、放っておいても子どもは全員賢くなるはずである。
しかし、そうではない。
もちろんそうでない理由はこのことだけではないが、考えることの全てが子どもの成長につながっているわけではないということだ。
つまり、『考える』の中には、子どもを成長させるのに効果的なものと、そうでもないものがあるということ、
そして、考えさせることで子どもを成長させたいと考えている教員らは、それを知ってないといけないということだ。
だが、それを知っている教員がどれだけいるだろう。
私はそれほど多くないと思っている。
私がよく分からないのは、効果的な『考える』を知らない教員らは、なぜ子どもたちに考えさせようとするのか、ということである。
おそらくそのような教員らは、子どもが考えているように見えると嬉しいのだ。
自分の指示で子どもが成長していると思いたいから、『考える』を拡大解釈し、白紙のプリントに向かって固まっている子どもですら、「この子は考えているんだ」と評価する。
正に自己満足である。
では、本当に大切な『考える』とはなにか。
それは『なぜ、どうして』を考えること、
つまり理由を考えることだ。
理由を考えることは、疑問を持つこと=課題発見と密接だからである。
「なぜだろう」「どうしてだろう」という思考を習慣化することで、子どもたちはあらゆる事象を批判的に観測し、新たな課題を見出すことができるようになるからなのだ。
計算問題をいくら解かせても
50mを何度走らせても
子ども同士で「ごめんね」を言わせても
叱責して廊下を歩かせても
「なぜ、どうして」の『考える』がなければ、現代においてはそれほど意味はない。
だから、教員は「なぜ、どうして」をかんがえさせるための声かけをしなければならないのだ。
そして、子どもたちから「なぜ、どうして」が生まれることが、教員らの喜びとならなければならないのである。