共感する力がない教員は要らない

一昔前の教育現場であれば、当たり前のように行われていたことが、現代において不適切な指導とされることが多々ある。

処罰、制裁はもちろんのこと、
叱責したり、あだ名で呼んだり、冗談でからかったり、極僅かなスキンシップですら問題となるご時世だ。

しかし、この世の中から、これらが全くなくなったわけではない。

社会における師弟関係や上下関係の中では、今も尚、厳しさをもって一定の緊張感を保つことを大切にする上司もいるし、
同じような関係でも、リラックスした雰囲気で何でも話せるようなフランクな関係を重視する者もいる。
前者が、一歩間違えば即座にパワハラだと叫ばれてしまう昨今おいては、後者の方が好まれるのであろう。

しかし最近では、パワハラに二の足を踏んで常にニコニコしている上司よりも、間違っていることをしっかり指導してくれる厳しい上司を求める若者についての記事や報道もよく目にする。

つまりは、上司と部下、先生と児童生徒、親と子のような関係は、厳しくするか優しくするかといった簡単な話ではないということだ。

当たり前の話だが、
厳しくしようが、優しくしようが、相手がどう感じているかを見定めることができなければ、ただの自己満足の為の行動でしかない。

もし、相手が不快に感じたことを見取ることができれば、その場で謝って、この後の行動や言動を改めればいいだけだ。

教員だけでなく、現代の大人は謝罪して悔い改めることを極端に嫌がる。
謝ることが『自分が無能であることを認めること』だとか『相手に負けた』とか、そんな風にしか捉えられないようだ。

周りの大人がそんなのばかりだから、子どもも怒られると素直に謝ることができない。
嘘をついたり、ごまかしたりすることを先に身につけてしまう。
更に言えば、謝ることができない子どもは、許される経験が乏しいから、周りの子どもの失敗を許すことができなくなってしまう。

それは人間関係で苦労するはずである。

学級崩壊や職員室でのトラブルを引き起こすような教員は、相手がどう感じているかを、表情や発言から推し量ることができない。
相手に共感する力がないから問題になってしまうのだ。

相手が不快感を感じているのに、それに気付かずに行動し続ける人間を、周りがずっと放っておけるはずがない。
攻撃され排除されるのが世の常である。

逆に、共感する力が高いということは、必要に応じて、あえて適度に不快感を与えることもできるということだ。

人は、不快感を払拭するという目的によってモチベーションが高まることが多々ある。
その状況を意図的に作り出せないのは、教員としては能力不足と言われても仕方がない。

相手に共感する力は、誰もが知っている『思いやり』である。
『思いやり』ない教員に『思いやり』のある人間が育てられる訳はないのだ。

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