学校に友達は要らない

学校に友達がいない、居場所がないという子どもがいる。
友達っぽい人はいるが、居心地はあまり良くないという子どももいる。
真に心を許せる友達がいるという子ももちろんいるだろう。

しかし、学校に友達は本当に必要なのだろうか。

たまたま、同じ年に生まれた近所の子供が一つの教室に集められて
「今日からみんな友達です。仲良くしましょうね」
と言われているのだが、
これは学校の教育活動上、本当に必要なのだろうか。

趣味も違う、バックグラウンドも違う人間たちの中で
『友達をつくらなければキツい』という風潮は、気の合う人間を見つけられない子どもにとっては本当にキツい。

みんな仲良くすること、友達と楽しく過ごすことが学校での子どもたちの『在るべき姿』とする価値観こそが、子どもたちを苦しめていないだろうか。

そんな中で、上手に学校で過ごすための『友達っぽい』存在をつくる子どももたくさんいる。
しかし、『友達っぽい』存在は、希薄な繋がりであるから、少し気に入らない事があれば切り捨てたり、攻撃したりする『敵っぽい』存在に変えてしまえるのだ。
「みんな仲良くしましょう!」が、いじめの出発点になっているようにすら思える。

このような、『友達ごっこ』を幼少期からこなしてきた子どもちは、ある時こう思う。

「友達ってなんなんだろう」と。
「人と人とのつながりとはなんなんだろう」と。

この疑問を持つこと自体は悪いことではないが、この疑問の答えを見出せなければ、希薄な人間関係が当たり前、希薄な人間関係がへっちゃらなマインドが完成してしまう。

そしてこのマインドは、友達づくりだけでなく、恋人づくりにも影響する。
「みんな仲良くしましょう!」は、もはや現代社会における呪いだ。

では、学校や大人たちは子どもたちの『居場所』について何をすれば良いのだろうか。
『居場所』について、どのような価値観をもって子どもと接すればよいのだろうか。

それは、学校の中に居場所を作らせるということではなく、学校の外に居場所を見つけさせることだったり、学校の外で今まで自分が居た場所が、自分にとって大切な居場所だったんだと気付かせたりすることではないだろうか。

だから学校では、べつにみんなと友達にならなくていいし、仲良くしなきゃいけないわけでもなく、大切なのは『みんなと平和に過ごす』ことなだけだ。

だから、「学校は本当の居場所じゃない」と言ってあげなければならない。
不登校や登校をしぶる子どもは、それにいち早く気付いているだけだ。

電車に乗っていて、
「今から、この車両にいる皆さんは友達です」
と言われても無理なのは当たり前だろう。
これで、「この車両が自分の居場所なんだ」と思える方がどうかしている。
しかし、電車に乗るならば自分が降りる駅までは平和に過ごせなければダメだ。

本来学校は、友達でもない、価値観も違う人間たちと平和に過ごすことを身に付ける場所なのだ。

真の問題は、学校や学級以外に友達を見つける場所が少ないということだろう。

この事を、大人たちはもっと考えてあげなければならないと思う。

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