叙述を基にする教員は要らない
登場人物の心情やその変化を文章から読み取って説明する際は、叙述を基にしてその根拠を示す。
これは、国語の物語文や説明文などの学習における基本となる考え方である。
子どもたちの読解力低下が叫ばれる昨今、読解力の低下はコミュニケーション力の低下に繋がっているとまで言われ、
教育は子どもたちに、叙述から根拠となる部分を探すことを更に強く求めるようになった。
〇〇が悲しいと思っているのは、本文のどこを読んでそう思ったのか?
〇〇が〇〇を憎いと感じていると考えたのは、本文のどこを根拠としているのか?
〇〇が〇〇へ好意を抱いたことが分かるのは、本文のどこか?
しかし、このような訓練を繰り返し行うことで、子どもたちは、リアルでも人の心情を読み取ることに根拠を求めるようになってしまった。
本来、人の気持ちなどというものはそう簡単には分からないものであるが、それを少しでも理解するために人々は、その人の表情や声色、会話の文脈などからそれを推測ってきた。
それが『察する』ということであり、現代における『空気を読む』ということでもある。
現代の国語教育の中で、人の気持ちを根拠を示して説明すること身につけたことで、
相手の発言や行動という表面的な部分だけからしか、その者の気持ちを判断できなくなってしまったのだ。
そして、気持ちを読み取るための根拠が見当たらない者に対して、
「アイツは空気が読めない」
「アイツは意味わかんない」
という扱いをするようになった。
人の気持ちは読み取れるもの、または説明できるものであると勘違いし、
相手の気持ちが分からないことを、根拠となる情報を与えてくれない相手のせいにしてしまうのだ。
そして、相手の気持ちについて、それ以上考えることをやめ、その者との関わりを深めることをやめる。
酷い者は、その相手を煩わしく思い、攻撃し始める。
sns上でも、互いのコメントの一部分を切り抜いて反論し合う不毛なやりとりばかりだ。
国語は学問であり、学問である限り、答えがなくては成立しづらい。
国語を学問として成立させるために、「叙述を根拠にする」という一つのテクニック教えているのだと、子どもたちに分からせるべきなのだ。
叙述から根拠を探し出すことと、目の前の人の気持ちを理解することは、到底別次元の話だと。
国語のマニュアル化した読解術そのものが、読解力の低下、更にはコミュ力の低下の原因になっているのだ。
本当に求められているのは、明確に本文に書かれていなくても、その他の情報から読み取るという高度な読解力であることを教員らは理解しなければならない。
更には、コミュ力についても、
『自分が好意を抱く相手の気持ちを少しでも分かりたい、でも分からない、不安だ、』などというプレッシャーのかかる状況下で人はその力を伸ばすものだということも理解した上で指導にあたるべきであろう。