人に迷惑をかけるなと言う教員は要らない
『人に迷惑をかけるな』と言う人間は大抵の場合自分の立場を守るためにこの言葉を使っている。
自分の管轄下にある者が管轄外の者に迷惑をかけると自分が責めを負わされるからだ。
人に迷惑をかけることが悪となった昨今では、人との繋がりは只の『しがらみ』となり、人間関係の構築やコミュニケーションのほとんどは煩わしいだけものとなった。
人に迷惑をかけないことが、現代における最良の処世術であると誰もが教えられ、信じてきた。その者たちは次の世代へと教え伝えていく。
子どもたちは、家庭だけでなく学校でも毎日のようにこのことを指導される。
担任教員は子どもが他の学級の授業や活動の迷惑になるようなことをすると、ものすごい勢いで憤慨し厳しく指導する。
私自身も幾度となくそのような現場を見てきたが、私にはそのような教員が自分を取り繕うのに必死なダサい大人に見えてしまう。
子どもを思っての指導ではなく、自分のために子どもをコントロールしようとしているのだから当然だ。
もちろん教員らには指導するにあたり誰もが納得するであろう大義名分をいくつも取りそろえ理論武装しているのだから、子どもの反論によってそれが崩される心配もない。
完全にマウントをとった状態だ。
学校は『社会の縮図』だとか言われることがあるが、現代の息苦しい社会はこのように作られているのだろう。
しかし、本当に人に迷惑をかけてはいけないのだろうか?
逆を言うと、人に迷惑をかけずに生きている人間がいるのだろうか?
そんな者はいないはずだ。
みんな誰かに迷惑をかけながら成長し、生きているはずだ。
問題は人に迷惑をかけることではない。
真の問題なのは多くの者が『迷惑のかけ方』と『責任の取り方』を知らないということだ。
先に『責任の取り方』についてだが、これは極簡単なことで、謝罪すれば良いだけのことなのだが、最近では子どもだけでなく大人ですらもこんな簡単なことができない者が多い。
それは、『責任の押し付け方』ばかり教わってきて、『責任の取り方』を教わらなかったからだろう。
間違えたら、自分が悪いと思ったら、謝ればいい、ただそれだけのことだ。
次に『迷惑のかけ方』だが、自分の意識の外で人に迷惑をかけてしまうことは仕方のない部分もあるが、自分の意識の内にあることであれば『迷惑のかけ方』をコントロールすることが可能なはずだ。
この場合『迷惑をかける』という言葉は『人を頼る』という表現になるだろう。
困ったら人を頼っていい、迷惑をかけてもいいのだ。人に頼られて嫌な気持ちになる人間はほとんどいないはずだ。
困ったら人の手を借りられ、間違えた時は謝って責任をとれる。
どう考えても生きていく上で必要不可欠なスキルだ。
教員らは、このような姿を子どもたちに見せていかなければならない。
大人たちが迷惑をかけ合い支え合い、時に間違え失敗し、互いに修正し合って生活する姿を。