おらおらで、さ。(若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』/第158回芥川賞 )
「おらおらでひとりいぐも」という響きはなによりもまず幼少期を過ごした米沢の光景を思い起こさせる。米沢弁なのか判然としないが、異様に米沢弁に近く感じる。米沢といえばそれが何県であるかピンとくる人も少ないいかにも田舎の街を連想させるが、比較的学習に対する意欲や論理的な解像度が高い人が多く、生活の余白に日本古来のデザインが息づく土地だった。城下町の風土がそうさせるのか、あるいは明晰な血筋の人が多く住んでいたからなのか、故郷への思いが事後的にそう思い起こさせるのか。幼少期の八年間を過ごした郷土の体験は本人に無自覚なままに習慣として織り込まれている。「三つ子の魂、百まで」という警句が可能であるならば、三歳から十歳までの暮らしが二十五歳のあり方を規定していてもまったく不思議でない。
今年の八月、デンマークを訪れた。「おらおらでひとりいぐも」を取り寄せた図書館ではデンマークのパンについての本を借りた。「大人になったらレゴランドに一緒に行く」。米沢の次に通った横浜の小学校で同級生と誓い、それを実現したものだった。大学二年生から「真冬の北欧に一人で行く」という習慣を継続していた。学部二年生でスウェーデン、三年生でノルウェーとスヴァールバル諸島のスピッツベルゲン島、四年生でフィンランド、ロシアとエストニア、修士二年生でアイスランドを訪れた。社会人一年目ではイギリスを広義の北欧と捉え、これも真冬に一人で渡航した。緑の湖水地方が一晩で白銀の湖水となったもこのときだった。
「真冬の北欧一人旅」は凍傷対策からはじまる。腰まで丈のダウンジャケットのうえに膝まで丈があるダウンを羽織り、ネックウォーマーや帽子など、ともかくもこもこのものを身につける。パンツはスキーウェアを流用するか、厚手のタイツを二枚重ねにする。スノーブーツを履き、雪の上で歩き回る術を保ちつつも、歩幅は極端に小さく、一歩一歩歩くたびにもごもごとした重みがある。雪に足をとられ、旅の動機を見失いかねないほど負荷がかかる。
「取り返しのつかない命のなかで、個人の自由や自立と、その反対側にある重くて辛いものも含めた両方を受け取って、人生を肯定的にとらえるまでにいたったのが見事」というのが本作に対する町田康の評だが、個人の自由と自立の代償の重みを踏まえたうえで一人で進んでいかねばならないという決意が「おらおらでひとりいぐも」という言葉なのだとすれば、体力のつききっていない小学生の私と北欧を旅する私が、真冬の雪国で結びつくのはこの精神においてだと感じられる。
学部二年生のスウェーデン旅行は初めての一人旅だった。旅行の前には二回の気分が落ち込むプロセスがある。一度目は航空券を予約するとき、二度目は旅程を確定させるときである。どちらもありえた可能性を剪定する瞬間だ。『百年泥』のような「ありえた可能性」が自然の流れのなかから噴出するようなことがあれば、何千人もの私が走査性のモナドのように世界中を駆け巡るだろう。この二回の縮減を乗り越えてしまえば、実際の体験が決められたプランの余白を埋め、体験を旅でしかありえない手ざわりで満たす。
しかし初めての一人旅ではそうはいかなかった。航空券を購入したはいいが、現地に辿り着けるかわからない。辿り着いたとして、身ぐるみすべて剥がされて凍死する可能性もある。目的地は真冬の北欧である。心は不安で満たされる。元来不安と仲の良い気質である。空港で購入した本も不安を助長した。国際文芸フェスの手伝いを経てジュノ・ディアスに興味を持っていた私は成田空港のTSUTAYAで『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』が平積みになっているのを見つけて旅のお供とした。「ジュノ・ディアスは実はオスカー・ワオに嫉妬していた」とか「ジュノ・ディアスが自己投影している登場人物のスピンオフが“This Is How You Lose Her”です。これから翻訳されます。」とか「オスカー・ワオが初めてセックスする場面が一番良く書けた」とかの話を聞いていた私は、この小説がサント・ドミンゴの「フク」と呼ばれる怨念を導入としてひどい出来事や漂う不吉さを描いていると知らなかった。「知らない世界」で展開されるコメディか何かかと思っていた。もちろんコメディとしての要素はあるのだが、怨念渦巻く追い詰められつつあるものを巡って笑うことは気分を重くする。
ストックホルムに私の知らない怨念が渦巻いていて、旅行者としてひどい目に遭うのではないかという不安にかられる。乗り換えの空港の清潔さと白いリノリウムの明るさが救いの余地のなさをあらわすように感じられた。
『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』を読むのはやめて、ターミナルを歩いてみることにした。もともと日本でも有名な好きだったH&Mやマリメッコのショップが楕円形のカウンターの影から姿をあらわす空間デザインに圧倒された。二〇一七年三月、『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』ではこの手法の自動生成と執拗なまでの多用がされる。岩や山の向こう側から姿をあらわす集落たち。パスポートコントロールを抜けて北欧域内の国内線ターミナルに着く頃には日が暮れており、北欧デザインに没入するという本来の目的にフォーカスできるようになっていた。夕暮れのダウンライトとアルネ・ヤコブセンの椅子が安心をくれる。過剰なまでに光で照らす西洋と陰影を活かす空間づくりをする東洋という対比を谷崎潤一郎『陰翳礼讃』で読んだのが読書を習慣化し始めた頃の記憶としてある。自分でも文章を書くようになり、熱さのままに書いている間に筆を折り、再び静かな「書く愉しみ」からはじめるきっかけとなった『こことよそ』が谷崎潤一郎を穫る。この期間は二十五以上の国を旅し、東洋/西洋という対比の解像度が思考の足場の足場程度のものであったことを知る。幼馴染と訪れたコペンハーゲンデザイン博物館では「ノルディックデザインが(古風な)日本文化から受けた影響」というところがけっこうなスペースをつかって説明されていた。米沢の老人たちが暮らす民家に遊びにいかせてもらうのが好きだったことと、北欧の安心感が結びつく。私の「おらおらでひとりいぐも」という確信はこうやって持続する。出来事の私的な接続を生きる歓びとする過程には苦しさもあるだろう。コミュニカビリティの要求も阻害してくる時勢である。他者に伝えるのは難しい。けれどそれに苦悩するのは一度愉しんでからでもいいではないか。
おらおらで、さ。
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