ルート回避
先日、私が応援している某界隈で、とあるスキャンダルが話題となった。
とても人気のある、いつまで経っても少女みたいに可愛い女性だった。生い立ちがえらく複雑で、ざっくり言うと彼女は親に捨てられて育った。施設だとかそういう場所を経ずに彼女は大人になった。救ってくれたのは、彼女が今も活躍するその界隈に携わっている大人たちだったという。
彼女はひょうきんそうな旦那さんと可愛い娘さんに恵まれ、幸せそうに見えていた。彼女は彼女の活躍するその界隈ではえらく有名で、その成績も抜群に良かった。過去は彼女の中で、遠いものとなったのだろうと、私は勝手にそう思い込んでいた。
スキャンダルは突然に露わになった。彼女に不倫騒動が出、そして離婚して居たことも明らかとなった。彼女自身は不倫を否定しているけれど、週刊誌に彼女のことを話したのは別れた旦那さんで、娘さんの親権も父親に行ったという。
不倫が本当かどうかは私にはわからない。只、写真も撮られていては「不倫はしていない」という証拠を世に出すほうが、きっと難しいだろうなとは思う。悪魔の証明とかいうやつだ。
ネットの中ではすぐに彼女のことについて話題になった。家庭の問題のみならず、大きなスポンサーがいくつも付いている件が絡んでくるので、今回の件は界隈にもなんやかんや大きな影響を与えるはずだ。だからファンも気にならないはずが無かった。
そしてぽつぽつと口にする人が現れた。「親に捨てられて、自分も子どもを捨てるのか」―彼女への、そんな言葉。
虐待は連鎖したりもするという。いくら「自分はあんな親になりたくない、」と思っても、親から子へと繋がっていってしまったりするものなんだそうだ。理由は私にもよくわからない。というか、深く知るのが怖くてよく調べていない。
私の母親は未婚だった。結婚なんて一度もしたことがなく、愛人であることが人生みたいな人だった(まだ存命だけれど、お婆さんになった今はさすがにお相手もいない)。それがいいか悪いかという話はさておき、娘の私はそのことに劣等感的なものを感じていたのも事実だ。そもそも父と苗字が違うのは、夫婦同姓のこの国で育った私には、ひどく違和感のあることだった。
だから私は結婚に憧れた。恋とは結婚前提でいて当たり前だと決めていた。私と結婚する気の無い男性となぞ、付き合ったってしょうがないと思っていた。
多くの家庭が、父親が夜には帰宅するものだった。そういう時代だった。そんな中で夜には別の家に帰ってしまう父を、私はずっと寂しく思っていた。
だから結婚しても単身赴任で別居、とかはしんどいなと感じた。同じ家で同じ夕ご飯を囲み、今日あったことを話したかった。両親のそういう姿は、小学生だった頃に親子三人で泊まったホテルでくらいしか見たことが無い。
私はとりあえず「生涯独身でいる」というルートからは外れた。ここで、母と私に決定的な違いが出来た。私は少なくとも、妾としてむこうの親戚から嫌われるルートは回避できたのだ、今のところは。子どもを産まなければ、私生児を育てるルートからも外れる。念のため言っておくが、私はそういう人生を選んだ人を否定しているのでは無い。只、私の母のような人生を送りたくないし、私のような子どもが居るのは哀しい。それだけなのだ。
けれどそれは理想論であって、私とていつ、ふたたび母と同じルートに向かうか、きっとわからないのだ。
前述の彼女とて、婚姻届を出したその日や、生まれたての娘さんをその手に抱いたその瞬間は、強く強く、「ルート回避」を確信していたことだろう。
彼女を裁くことは私の仕事では無い。けれどもひたすらに哀しかった。どちらかと言うと、彼女の家庭を壊すことがはっきりと見えていながら、彼女に手を出した不倫相手と言われている人のほうが、私には憎らしい。週刊誌にスキャンダルを売るという元の旦那さんの行為は、不倫相手(仮)へ社会的制裁を加えたい一心によるものだろう。どちらにせよ娘さんはいつかすべてを知り、有名人の子どもであるだけに、必要以上に傷つかざるをえないことだろう。ならば、不倫相手(仮)を只のほほんと暮らさせるより、しっかり鉄槌を下しておく。それは父親としては至極まっとうな選択だと私は思う。
けれども、箱をひっくり返して最後の希望を見つけるとしたら。
彼女は間違いなく、何度も「ルート回避」しようとした。自分を捨てた親とは違うルートを選ぼうとしたはずだ。少なく見積もったって、永遠の愛を誓った日と、その相手との愛の結晶を産んだ日。そこには純粋な気持ちしか無かったはずだ。これからの幸せを夢見、幸せを信じる、そんな気持ちだけしか、きっと無かったはずだ。
願わくば、できるだけ皆が幸せへ向かう為のルートが用意されますように。