【35冊目】姑獲鳥の夏 / 京極夏彦
ら月あ日です。
本日17時-24時半です。
みなさま夏休みの宿題は提出いたしましたかね。もう9月なわけですから。解放的な夏は過ぎ、はしゃぎすぎてる夏の子供たちも、いかれた夏のbabyも、夏の魔物たちも、みんな9月の風に吹かれて消えゆくわけですね。嗚呼。幼いだけの密かな、掟の上で君と見た夏の魔物に会いたかった。私はこの『夏の魔物』という楽曲を小島麻由美さんがカバーしてるバージョンが存外に好きで。夏の儚さを煽るのには完璧なバージョンなんですよね。思えばこのカバーが収録されているスピッツのトリビュートアルバム『一期一会』は、私が一番好きなトリビュートアルバムかもしれない。椎名林檎さんの『スピカ』に始まり、松任谷由美さんの『楓』、中村一義の『冷たい頬』、民生の『うめぼし』、つじあやのさんの『猫になりたい』、ポリの『チェリー』、全部大好きですね。2002年発売ですから20年前ですか。まだMDの時代ですね。そして、そんなアルバムの最後を飾るのが『夏の魔物』ですよ。最高です。夏は終われど、季節はめぐり、幸せは途切れながらも、続くのです。
さて。
そんな当店の月初のお決まりといえば「ウィグタウン読書部」ですね。さながら夏休みの宿題感ありますね。8月の課題図書は京極夏彦『姑獲鳥の夏』。のちに映画化やコミカライズもされ、大きく話題になった作品ですので、すでにお読みになられていた方なんかも多かったのではないかと思いますがね。実をいうと私、読むの初めてで。そりゃあガワは知っている。なんだか古風な世界観でモノノ怪の類が暗躍したりして、それを陰陽師がカーッ!と解決していくやつですよね。あと、とにかく分厚いとか。鈍器本だとか、それ自体がブックエンドになるブックエンド本だとか言われるくらいで、とにかく分厚いなんて印象があったんですがね。今回文庫本を手に取ってみると、思いの外そんなに分厚くない。まぁ厚いは厚いですけど、そんなに分厚くはない。あれれー?など思いながら読み進めてみると、思いの外そんなにモノノ怪の類も出てこない。まぁ出てくるは出てくるんですけど。あれれー?など思いながら読み進めていくわけなんですがね。思っていたよりずっと本格ミステリーな感じで、なんというか、イメージというのは本質とは異なるものですね。そもそもその「イメージ」というのもどこから来たものなんですかね。この「イメージと本質の違い」というのが本作を楽しむ上ではキーワードになってきたりもするかもしれませんね。そんなこともないですかね。ともかく。読んでみましょう。例によってここからは【ネタバレ注意!】となりますのでご注意くださいませ。
物語は三流文士の関口巽が、友人で古書店店主である中禅寺秋彦、通称京極堂に面妖な噂話を持ち込むところからスタートする。曰く〈「二十箇月もの間子供を身籠っていることができると思うかい?」〉と。最高にキャッチーな導入ですよね。重ねて「普通ならあり得ないけど、もし事実だとしたらマジ不思議だよね」という関口の言を受けて、京極堂が吐いたセリフが〈「この世には不思議なことなど何もないのだよ」〉というもので、これが京極堂の哲学であり、物語の骨子となっている考え方である。どんなに奇ッ怪な出来事でも、起こり得ることは起こるべくして起きる。脳と神経内科と臨床心理と民俗学と量子力学、その他もろもろの科学的見地から、宗教を幽霊をモノノ怪を論理する。冒頭から「マジ不思議」というテーマに対し「不思議なことなど何もない」と言ってのけ、関口の疑問や一般論に対し長広舌をふるうシーンなんていうのは、まさしくこの作品の序盤のハイライトといっていいですよね。理屈に超常現象をこねくりまわして、一般常識による視野狭窄を加えて発酵させて、頭蓋に囲まれた灰色の脳細胞の中で焼成をかけて、ハイ!出来上がり!みたいなパンパンのパン、それが京極堂ですね。この序盤だけで、好き嫌いはめっちゃ別れるだろうな、と思うわけですが、そんなの無視してぐいぐい読んでいくと、また、登場人物がこれでもかというくらいに濃い。うつ病の三流文士、関口巽と、古書店店主で陰陽師でもある京極堂、彼らの学友である探偵榎木津は「人の体験を視覚化することができる」という特殊能力をもち、出版社に勤める京極堂の妹は兄譲りの明晰な分析でバシバシ物語を切り盛りしていく。そこに持ち込まれた事件自体も、大変にキャラが立っている。舞台となったのは由緒ある医者家系である久遠寺家。美しく儚げな姉涼子に、二十箇月身籠っている妹梗子。厳格な両親と、気弱な婿養子。住み込みの見習い医師に使用人夫婦と、久遠寺家の関係者とその描写は、さながら「昭和ゴシック」とでも言えるような世界観を持っており、舞台設定がとてもイカしている。その舞台設定にさらに色を重ねるのが、久遠寺家の家系が「憑物筋」であるという噂や、婿養子の研究内容が人造人間(ホムンクルス)に関することだったり、近所で起こる赤児の失踪事件である。ばら撒かれる様々なエレメンツが、ものすごく丁寧に、一つの道筋をつけて描かれており、登場人物の言動全てに矛盾がないように組み立てられていく物語はとても緻密だ。そうして丁寧にばらまかれたいくつもの謎、つまり「不思議なこと」や「非常識なこと」を解決するための「憑物落とし」がスタートする。雨夜に星型の晴明桔梗が描かれた提灯を下げ、番傘、黒の着流し、手には手甲、鼻緒だけが赤い黒下駄なんて格好で京極堂は事件解決へと向かうわけなんですが、このシーンなんていうのは、もう、本当に、待ってました!みたいな感じですよね。初めて読む物語だというのに、そのシーンはバチっと型にはまっており、格好いい。やったー!って気分になりますね。そしてそこから京極堂が関係者一同を集めて、事件の解決編へと向かうわけなんですが、ここから事件の核心となるネタバレを含みますので、改めて【ネタバレ注意!】を置いておきます。続きます。
本来のミステリであれば、事件の関係者が一堂に会し探偵役がトリックを暴露。「犯人はお前だ!」とやって大団円を迎えるかと思うのですがね。京極堂がここで仕掛けるのは、ネタバラシやトリックの看破ではなく、あくまで「憑物落とし」なんですよね。ここでいう「憑物」とはつまり「一般常識や凝り固まった固定観念」のことで、そうして各々の世界の「常識」に囚われていると、あるがままの現実を受け入れることが難しい。京極堂が行ったのは、いわばその「常識」の枷を外すということで、その「常識」さえ外れてしまえば、あとは事件に解決もへったくれもない、という感じなんですね。この「解決編」のカタルシスは、個々のキャラクターがなぜその「常識」を得るに至ったかを回収していく作業にあり、物語前半にばらまかれた各種エッセンスをどんどん吸収してパンパンに膨れ上がった「常識」を、「憑物落とし」でパーンっと破裂させる様などは、大変に心地が良い。出てくるエッセンスも、呪われた家系、子攫い、無頭児、屍蝋、多重人格、体外受精(ホムンクルス)、想像妊娠といった人体の不思議オンパレードとでもいうようなエッセンスで、その中でも極め付きが「そこにあるのに見えない死体」である。この「見えない死体」をもって、私は最初「いや、それはさぁ。。」となった。「あるのに見えない」って、それは確かに脳神経的には起こりうることだとは理解しますがね。これはちょっと事件の解決編としては、あんまりじゃないですか。叙述トリックにすらならない。こんなのってないよ、と思った。しかし、本作を「固定化されたイメージの破壊」「常識の枷を外す」という意味においての「憑物落とし」の物語として考えれば、まぁ、そういうものですよね。そういえば探偵や警察が登場しているにも関わらず、解決しているのは陰陽師ですし。「見えるものが見えない」ということが事件の肝要なところなのであれば「見えないものが見える」という妖怪の類もまた同時に、この物語の重要なエッセンスの一つである。疑っていきましょう。常識を。大局的な視点で見れば、不思議なことなどなにもないのですから。
とうわけで、8月の課題図書は京極夏彦『姑獲鳥の夏』でした。9月はジェイムズ・ホッグ『悪の誘惑』です。ゴシックな選書が続きますね。読んでいきましょう。