【仏教コラム002】死を事実と受け止めていく中に、開けてくる視点
今回のコラムは、「大人のための寺子屋」という連載の続編です。より良く生きたいと思う方、悩みや葛藤を抱える方など、様々な立場の大人の方々に読んでいただきたいコラムです。
さて、前回から、「死生観」について取り上げています。前回は、こちら。
https://note.com/theterakoya/n/n0d4017236029
前回、死に対して我々が取ろうとする態度について、大きく4つあると提示いたしました。一つは「死を考えないこと」、二つ目は「少しでも健康でいようと気をつけること」、三つ目は「今を大切に生きること」、四つ目は「死を受容し、超克すること」です。前回は、三つ目の「今を大切に生きること」について書きました。
今回は、1つ目の「死を考えないこと」について、考えていきたいと思います。
死に対して、恐怖や不安、未練、葛藤といった類の感情がおこることは、人間として特別なことではありません。だからこそ、上記4つの形で、我々は死に対して、何らかの対処をしようとします。1つ目の「死を考えないこと」というのも、一つの対処法ではあります。死について考えず、楽しいことを考えるといったことも、ある意味では対処法です。
自身の今生でのいのちが尽きていくことは、誰もが頭では理解しています。死亡率100%とか、死なない方法は、生まれないことだとか、冗談めいて言われることもありますが、事実でもあります。しかし、事実を見るということは、ある意味つらいことでもあります。死という事実にとらわれて、生きていることを喜べなくなってしまうこともあるわけです。ですから、「死を考えないこと」も、一つの対処法ではあるわけです。
▷諸行無常と一切皆苦
しかし、「死を考えないこと」の欠点は、人は死なないわけではないということです。つまり、いつか死について考えなければならない事実に出会うということです。この世の真理(時代が変わっても普遍なもの)の一つに、ものごとは移り変わっていくというものがあります。仏教ではこれを、諸行無常といいますが、人間も歳月をかけ、段々と変化していくわけです。ある程度元気な間は、一日単位での変化は感じにくいかもしれませんが、実際には変化しています。
ここから先は
¥ 100
いただいた浄財は、「心豊かに生きる」ことにつながる取り組みに活用させていただきます。