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生きる意味を仏教から考える。生かされていることへの気付き編

皆さん、こんにちは。僧侶の神崎修生です。
(福岡県糟屋郡 信行寺。浄土真宗本願寺派)

今回は、「生きる意味を仏教から考える。生かされていることへの気付き編」というテーマについて、考えてみたいと思います。


以前に、「生きる意味」について、「やりがい、生きがい」という観点から考えてみました。

▼以前の記事はこちら

そこでは、時間の有限性(人のいのちには終わりがあること)を意識して、「自分が本当にしたいことは何か」と問い続け、人生について考える習慣をつくることの大切さについて考えました。

その中で、「生きる意味」につながる「やりがい、生きがい」を主体的に見つけていくというものです。


ただし、その回にも書きましたが、「生きる意味」については、色々な角度から考えることができ、人それぞれに色々な答えもあります。


「生きる意味」は、掴んでいくという主体的なものだけではなく、生かされているという大きな流れとつながりの中にあることに気付かされていくことで深まっていくという、受動的な側面もあります。

そもそも、自分がこの世に生を受けたのは、自分が生まれたいと思って生まれたわけではありません。人生の始まりが、そもそも主体的ではないですよね。ですので、主体的な側面だけでは、人生や生きる意味は説明がつかないところがあります。


自分がこの世にいのちをいただき、今日まで生きていることには、気付きやすいところだけでも、親や祖父母の願いがあり、周囲の方々の支えがあるわけです。

(親子などの関係性は、あくまでも人それぞれかと思うので、恩を感じる方に置き換えて考えていただけると嬉しいです)

そこで、今回は、「生かされている」ということから、「生きる意味」について考えてみます。

▶動画でもご覧いただけます


私は過去には、「自分の人生は自分の思うように生きていけばいい」と思って生きている時もありました。ですが、ずっとそれでいいのだろうかという疑問や、そういう方向性ではないよと心の奥底では思っていました。

しかし、「それは気のせいだ」、「自分の人生だから自分の思うようにつくっていくんだ」と、疑問や心の奥底の思いを振り切ろうとして生きていました。

今思うと、これまでの多くのご恩を見ない自分の生き方に対して、自分が疑問を発していたのであり、その時々に出会う相手の思いに目を背けている自分のあり方に対して、違うよと自分が発していたのだと思います。


今でも、自分の心を好き勝手させていたら、自分中心の狭い視野と恩知らずな慢心が出てきます。

今回は自分への戒めも込めながら記したいと思いますし、また、いのちをいただいた喜びや、今を生きていることへ感謝できる人生になっていくことを、自分自身も願いながら記したいと思います。


いただいたいのち

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「生きる意味」を考える上で、そもそも前提となるのが、私たちは、この世に自分の意志で生まれてきたわけではないということです。

当たり前ですが、「この時代に」と自分が決めて生まれてきたわけではありません。「人間として」、「この国に」、「この家族に」と自分で決めてはいないですよね。私たちのいのちは、様々なご縁の中、偶然に偶然が重なり、いただいたいのちです。


父母や祖父母の出会いやタイミングのどれ一つが違っていても、私は生まれていません。ひいおじいさんと、ひいおばあさんは8名いて、ひいひいおじいさんと、ひいひいおばあさんは16名います。その何かが違っていても、私はいないんですね。


私の母方のおじいさんは、戦争でビルマ(現ミャンマー)に行き、200名の部隊で生き残ったのが、おじいさん含め2人だけだったといいます。おじいさんがそこでいのちを落としていたら、私の母は生まれておらず、私も生まれていません。

ご先祖お一人お一人に、様々な人生があり、偶然に偶然が重なり、いただいたいのちであることを感じることがあります。


ご存じの方もおられるかと思いますが、ありがとうという感謝の言葉は、有り難いという存在することが難しい事実を喜んでいく言葉です。

このいただいたいのちという事実は、否定のしようがないことです。


先日、宇宙関連事業のベンチャーの方と、ご一緒にお話をさせていただき、宇宙や生命について考える機会がありました。太陽がなければ地球に生命は誕生していないですし、地球の位置がわずかに違っていても、現在の地球の環境ではありません。

宇宙空間の中で生命が誕生したことの奇跡や、そこから様々な生物の多様性がうまれ、人間が誕生し、自分まで生命がつながってきたことを思わされました。不思議というしかありません。


このいのちは、様々なご縁の中、偶然に偶然が重なり、いただいたいのちだったと思わされます。「生きる意味」について、自分が生きてきた人生だけで考えるのではなく、「生かされている」ということから考えてみることで、視野がぐっと広がる感じがします。


受けたご恩とつながりの中から見出す「生きる意味」

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それと、いのちの誕生だけでなく、親や祖父母をはじめとした色々な方の支えがないと、今の自分はなかったといえます。自分が子どもから大人になるまでに、多くの時間や手間やお金や思いがかかっていたことを思わされます。

(再度記しますが、親子などの関係性はあくまでも人それぞれかと思うので、恩を感じる方に置き換えて考えていただけると嬉しいです)


受けたご恩のことを考えると、ご恩への恩返しや恩送り自体が、自分が「生きる意味」にもなるように思われます


また、子どもの存在や兄弟、親友など、大切な人がいると、自分が存在していること自体が「生きる意味」となることもありますよね。この子がいるからまだ自分は死ねないとか、少しでも元気で生きて、成長を見届けたいとか。

こうして考えてみると、「生きる意味」とは、何も主体的なものばかりではなく、このいのちは、偶然に偶然が重なり、いただいたいのちであることや、多くのご恩によって、ここまでつながれてきたいのちであるといった受動的な側面からも考える必要があるといえます。


高慢や卑屈な生き方


しかし、我々人間は、生まれてから時間がたち、段々ともの心がつき始めると「自分の思い通りにしたい」とか「自分が良ければいい」といった自我がうまれてきます。これは、自分で生きていこうとする自立心ともいえます。

もう少し歳を重ね、段々と自分のことが自分でできてくると、「自分が自分の人生を生きている」という感覚がうまれてきます。これは、自信ともいえます。

自立心や自信は、人が生きていく上で、とても大切なものです。


しかし、自信が慢心に変わると、できるできないで他者を判断するようになり、「あいつはできないやつだ」とか、「俺は偉い」という思いが湧き出てきます。


また逆に、自信が持てず、卑下心をもつと、今度はできるできないで自分と他者を比べるようになり、「自分はなんてだめなやつだ」とか、「自分はだめだ」という感情にさいなまれます。


仏教では、慢心も卑下心も、両方とも毒だと考えます。そして、仏法(仏法/仏教の教えのこと)が、その毒を滅する薬であるということがあります。


浄土真宗の宗祖である親鸞聖人の言葉に、このような言葉があります。

如来誓願の薬はよく智愚の毒を滅するなり。
『教行信証』信文類
〈意訳〉
悩み苦しむものを必ず救うという、阿弥陀如来(あみだにょらい)の願いや誓いは薬であり、自分は知恵がすぐれているという慢心の毒や、自分は愚かであるといった卑下心の毒を滅してくれるものです。


これは、仏法(仏教の教え)に出あうことで、自分の慢心により他者を傷付け生きている自分の姿に気付かされたり、卑下心により自分を傷付け生きている自分の姿に気付かされていくということを示しています。


高慢も卑屈も毒であって、仏法という薬によって、自分中心の高慢な生き方やあり方への疑問や、自分なんてたいしたことのない存在であるといった卑屈なあり方への疑問もうまれてきます。


「生かされている」ことから「生きる意味」を考える

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ここで改めて、「生かされている」という観点から「生きる意味」について考えてみます。

ともすると、主体的に「生きる意味」を見出そうとする時に、自分の人生だから、自分が良ければいいとか、自分の思い通りにして、人のことは関係ないといった考え方になることがあるかもしれません。

また逆に、主体的に「生きる意味」を見出そうとしても、生きる意味が見つからなかったり、見失ってしまうこともあるかもしれません。


主体的に「生きる意味」を見出そうとすることは素晴らしいことですが、自分が良ければよいという高慢な生き方や、自分と他者を比べて卑下するような生き方になる場合もあるということです。


ですから、「生きる意味」を考える上では、このいのちは偶然に偶然が重なり、いただいたいのちであることや、多くのご恩によって、ここまでつながれてきたいのちであるという受動的な側面からも考え、それを前提にしておくことは大切なことのように思われます。

自分が育ってきた過程や、これまでのご恩のことを考えてみると、自分の存在に、いかに多くの方が関わっているかが分かります。

ですから、有り難いいのちを喜び、感謝し、受けたご恩へ恩返したり、恩送りすることが、「生きる意味」にもなることでしょう。


そして、私たちは今もまさに、互いの存在が相互依存しあって、共鳴し合いながら生きています。

相互依存、相互共鳴ですから、これは自分がご恩を受けているばかりではなく、自分が存在していることも、他者に対して何らかの影響を与え続けているということでもあります。

自死者のご遺族にもお会いしてきましたが、誰からもその死を悲しまれない人はいません。

自分が今ここに存在していること自体が、既に「生きる意味」です。自分が生きていることを喜んでいる人がきっといます。


このように、このいのちは偶然に偶然が重なり、いただいたいのちであることや、多くのご恩によって、ここまでつながれてきたいのちであること、そして、気にかけてくださる人がいるといった受動的な側面から「生きる意味」を考えていくと、視野が広がったり、人生が豊かに感じられてきます。


小さな自我に閉じた生き方から、生かされているという大きな流れとつながりの中のいのちへの目覚めさせられていきます。

ここにいのちをいただいた喜びや、今を生きていることへ感謝しながら、恩返し、恩送りの人生を送ることで、人生が豊かなものに感じられていきます。


いかがだったでしょうか?

今回は、「生きる意味を仏教から考える。生かされていることへの気付き編」というテーマでお話をさせていただきました。


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合掌

浄土真宗本願寺派 教證山信行寺
神崎修生

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