坊さん日記を始めてみる【坊さん日記001】
◆坊さん日記を始めてみる
正直、需要があるかはなはだ疑問だが、「坊さん日記」を始めてみたいと思う。
▼坊さん日記について、音声でも語っています
僧侶という存在は、存在としては知られているが、誰にとっても身近かというとそうでもなく、その実態はあまり知られていないように感じる。
色々な方とお会いすると、「お坊さんと初めてこうやって話しました」とか「お坊さんってどんな生活をしているんですか?」という言葉をよくいただく。
そうしたこともあって、私神崎修生が、いち僧侶として、どんなことを考え、どういう活動をしているのかを記してみたいと思う。
僧侶も千差万別だが、その一例として、僧侶のことを知るきっかけにしていただければ幸いである。
ちなみに、僧侶と言ってもお坊さんといっても同じことである。
◆仏教やお寺をもっと身近に
お寺離れという言葉が使われるようになって久しいが、その中で自分にできることは、「仏教やお寺をもっと身近に」ということ。仏縁づくりともいわれる活動を、最近はずっとおこなっている。
「仏教やお寺をもっと身近に」感じていただくためには、既存のやり方だけでは届かないのではないかと思い、未来の住職塾というお寺の経営塾に通ったり、グロービス経営大学院でMBA(経営学修士)を学んだり、ビジネス系Youtuberの動画を見あさったりしながら、現代のアプローチを探り、日々実践している。
当たり前だが、仏教やお寺に必要性や魅力を感じていただけなければ必要とはされないし、どういう価値があるのかを知っていただかなければ活用のしようも分からない。今に応じたお寺のあり方を考え、工夫・改善し続ける必要があると思っている。
ただし、お寺のことはお寺とご縁のある方々と一緒におこなうことが大切だと思う。僧侶・寺族(僧侶の家族)が一方的にサービス提供者となり、門信徒(檀信徒)の方々がサービスを受けるという構図は、お寺においては必ずしもそれがいいとも思わない。
全国津々浦々に立派なお寺があることを思うと、サービス提供が素晴らしいからそうなっているとも思えないからである。むしろ、地域の大切なものであり、仏様や神様がおられる聖域であるとの思いなどから、お寺はまもられ、支えられているようにも感じる。(もちろん、地域差や時代による変化はあるが)
だからこそ、お寺とご縁のある方々とご一緒に、今に応じた、そしてそこにいる人に応じたお寺のあり方を考え、工夫・改善をしていくことが大切ではないかと思う。
ただし、誰かがそれをまとめていくという役割は必要になるだろう。総代会といった会があるのもそうした意味もあるだろうが、僧侶・寺族がまとめていく役割を担うとすれば、宗教者力に加えて、リーダーシップやファシリテーションのようなものが、大切なスキルとなると思う。
そうしたこともあって、自分は今、MBA(経営学修士)などを学んでいるのだと改めて思った。
断っておきたいのは、お寺のあり方は、地域や宗派、お寺によって随分と変わる。ここに記しているのはあくまで私日記であって、自分の考えを整理したり、自分にとって大切だと思うことを記しているに過ぎない。全国のお寺に対してこうあるべきだなどと言っているのではないので、その点はご理解いただきたい。
とにかく、自分ができること、したいと思っていることは「仏教やお寺をもっと身近に」という活動である。微力ながらも、こうした活動を通して、仏教やお寺に感心や必要性を感じている方へ、魅力や価値が伝わり、仏縁が育まれていくお手伝いができると嬉しく思う。
◆自分は執着をもった人間である
そもそも自分がなぜ「仏教やお寺をもっと身近に」という活動をしているかというと、突き詰めれば、自分が仏教と出遇って良かったと思うからだ。
価値観や考え方、物事の見え方などが、仏教を知らなければ違ったものになっていただろうと思う。
それは、仏教を知って自分が良い人間になったということではなく、自分が執着をもった人間であることがよく見えてきたというほうが近い。
自分が物事を見ている時に、つねに自分の都合や価値観、気分などで見てしまっていることに気付かされたのは、仏教によるところが多い。
だから、自分の意見が絶対に正しいとも思わない。また同じように、他者の意見が絶対に正しいとも思わない。自分も含めて、人それぞれに自分なりの見方をしているんだなあと見るようになった。それは仏教を知るようになってからである。
自分への執着、我執をコントロールできるかは、また別の課題である。自分の立場や見方から離れよう、離れようと思っても、中々難しい。自分にとってのメリットやデメリットを考えてしまうし、疎外感を感じれば寂しい思いにもなる。
これはポジショントークだなと思いながら、ポジショントークを繰り広げることもある。ポジショントークは往々にして人を傷付けるので、聞いた人も嫌な思いをするだろうし、その言葉を発した自分に対しても「何をやっているんだ」と反省することもある。
仏教に出遇って良かったと思うことは、このように自分の自分中心さが見えるようになったことと、それをよしとできなくなった、反省をするようになったということだ。
そして、喜びも深まったと思う。色々な方に多くのことを教えていただいて感謝している。そう、感謝ができるようになったことも、ありがたいことである。
そしてまた、自分がすぐれた人間だとは思わないし、そして、劣った人間だとも思わない。自分は自分だという思い。そんな中道的な価値観が仏教によって育まれたことが本当にありがたい。
私は28歳までお寺以外の仕事をしていた。それを辞め、仏門に入ったのは、このような仏教の価値観に惹かれたからだ。
まだまだ完璧な人間ではないし、生涯完璧にはなれないだろう。いや、完璧を目指さなくてもよい。そうした価値観、世界観に出遇えたことが自分の救いになっている。
私と同じような思いをしている方や、人間のエゴ同士のぶつけ合いにいささか疲れている方などに、この仏教の考え方が少しでも伝わればと、僭越ながら思っている。
それが、「仏教やお寺をもっと身近に」という活動の原動力になっているのだと思う。
しかし、その活動も我執が混じる時があるから、方向が外れていかないように、「目的は何だっけ?」と問い続ける毎日だ。
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最後までご覧いただきありがとうございます。
合掌
福岡県糟屋郡宇美町 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
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