ぶつかり合うべきだったのか
まともに向き合っていればぶつかり合って上手くいかないことがわかっていたから、お互いにまともに向き合ってこなかったことの理由を、何か別のものに求めていた。その選択が正しかったのかどうかはわからない。正しかったからこそ、私は「1つのこと」を続けることができ生き続けることができたのだろう。その代償として長期間に渡って「コミュニケーションを取る機会がほとんどなかった」時間を過ごすことになり、「人との繋がり方」がわからなくなってしまった。元々、わからなかったことではあるけれど、それが悪化してしまったような気がしてならない。かといって、まともに向き合っていたとしたら「1つのこと」を続けることはできなかっただろうし、最悪、生き続けることもできなかったかもしれないと思う(身体的不良で入院したのはそれに対する体からの無言の抵抗だったんだろう)何度も何度も同じことを考え、何度も何度も同じことを表現を変えて書いているけれど、同じ結論に帰着する。でも、いつもと少しだけ違うことを加えるとすれば、「まともに向き合う=間違った選択」だったと思う。辛い
年齢を重ねた今だからこそ、理不尽な「怒声」や「悪気のない悪意」も耐えられる(耐えちゃいけないものだけれど)。これがまだ年端もいかない経験も積み重ねてきていない頃に、まともに向き合っていれば「怒声」を浴びせられ続けられ耐えられずに「1つのこと」を続けることはできず、生き続けることもできていなかったと思う。そんな風になることがなんとなくわかっていたからお互いにまともに向き合ってこなかったんじゃないかって…前向きに受け止めてみたりもするけれど、そこまでのことを相手側が考えていたかどうかは定かではない。そういう風に考えていたこともあるのかもしれないけれど、単純に「どうしていいのかわからない」から私にまともに向き合うことはなかったんだろうなと思う。そんな風にさせてしまったのは「私が積極的にコミュニケーションを取り続けていかなかったから」なんだろう。その点は反省しているけれど、コミュニケーションの問題は片方の側だけではどうすることもできない。そのことを相手側はわかっていない。
挨拶はコミュニケーションを取るきっかけになるものだと思う。小声であろうが相手の反応がなかろうが会釈程度であろうが、とりあえず挨拶をしておけば「話しにくい相手」に話さなければならない時や「話しにくいこと」を話さなければならない時に、多少は「話しやすさ」が生まれると個人的には思っている。それだけではなく「声」を出し「所作」をすることで「話すきっかけ」を作ることができるとも思っている。「とりあえずやっておけばいい」という考え方は好きではないし、「やってます感」ほど信用できないけれど、挨拶に関しては「とりあえずやっておこうよ」と思う。
この視点で考えると、そもそも相手側からはまともな挨拶もないことの方が多かった。そんなところから「気まずさが生まれ、コミュニケーションが取りにくくなり…」というのが私の言い分なんだけれど、そんなことは相手側に通じることもなくそんな状態が私の気分が滅入る原因となり、私が相手側の挨拶に対してまともな反応を取れなくなったら不機嫌に…同じことをされても私はそんな風にならないのに「どないやねん」って感じだけれど。まあ、お互い様なのか。
年齢や立場は私の方が下だけれど。
相手側には「どうしていいのかわからない」というものが根本にあるから、まともに向き合ってもらえなかったのが真実だと思う。実際にそんなことも言われ続けてきたので、それがきっと真実なんだろう。けれど、理由がなんであれ相手側が「どうしていいのかわからない」から私とまともに向き合うことをしてこなかったのだとしたら、 私は現職に留まり続けるべきではなかったのだと思う。それに「あまりにも人を馬鹿にした話ではないか」とも思う。