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人生が超絶豊かになる、「愛されたければ、まずあなたが愛しなさい」の正当性を論理的に説く話

私が小学3年生のある日、突然、母親が私にマザーテレサの言葉集をくれました。キリスト教徒でもないただの小学生とマザーとの「初対面」はこの時でした。その出会いは、その後の私の人生で最も影響力を持つ言葉との出会いでもありました。

「愛されたければ、まずあなたが愛しなさい。」

この言葉に出会ってからこれまで、私はずっとその言葉の意味を理解したくてたまりませんでした。ずっと望んでいたこの言葉の咀嚼ができちゃった!ら、マジで人生が超絶豊かになっちゃったので、是非読んで欲しいです。

「愛」について考えたことのある全ての人へ。

「飼い犬の死」が引っ張り出したこと

先日、私が3歳の頃に家族になって共に育った犬が死んだ、と聞きました。
私が10歳の頃、東日本大震災を機に大人の事情で一緒に住めなくなってしまい、知り合いが可愛がってくれていたのでそのまま引き剥がすのは可哀想だ、という理由でこれまでずっと離れて生きてきました。

少しだけ彼(犬)の話をします。
彼は、まだ妹が生まれていなかった当時の私にとって兄弟同然でした。いつも一緒にご飯を食べて、寝て、怒られて、「共に生きて」いました。
私が怒られて泣いていると、必ず私の隣にぴったり寄り添ってくれる彼に、私は親よりも心を許していました。
自分で書いていて悲しくなってしまったので、お涙頂戴話はこの辺にして、本題に戻ります。

先ほど述べた通り、彼との時間はあまり長く続かず、彼はもう一つの家族でもその一員になりました。物理的に離れてしまったことと、彼を混乱させないために、それから私が彼に会ったのは一度きりです。
そのため、私の中では既に「思い出化」していたのですが、「彼の死」を知った途端に心は一気に沈み、それから涙がボロボロとこぼれてきました。

これまでも会えていなかったのに、物理的にはちっとも変化のないニュースだったのに、私の感情は大きく揺れ動きました。そしてその状況を俯瞰してみた時、私は気がつきました。

私はずっとずっと「会えなくても、彼がどこかで元気にしているのなら、私はそれだけで嬉しいし、それだけで元気が湧き出てくる」と感じていたのです。つまり、彼の存在そのものが「元気の源」というか、私にとってのパワーステーション的な役割を担ってくれていたのです。私の知らぬうちに。

多くのものが合わさって完璧なバランスを整えていた「私」から、大切な部品が一つ抜け落ちてしまったかのように感じたから、私は急激に弱々しくなったのだと思います。

この場合、通常は私に「大切にされている方」の彼が幸せ者のように思えますが、実際は彼を「大切にしている方」の私が、強くあれていたのです。
アンビリーバボーすぎる!

「大切に思う」を咀嚼する

「大切に思う」とはどういう状況を指すのでしょうか。
それは、自分の中にその存在が大きく在ることを認知している状態のことだと言い換えられると思うのです。
そして、「自分の中に大きく在る存在」というのは事実上、自分を形成する上で極めて重要な要素だとも言い換えられます。
であれば、必然的にその「大切に思うモノ」に自らが支えられているということになります。

ちょっとややこしいかもしれないので、簡略化してみます。

大切に思う=
その存在が自分の中で存在感があると認知している状態=
自分の「一部」且つ「大部分」=
それがないと、その自分ではなくなってしまう=
それに支えられて今の自分を維持している。

という流れです。伝われ!
読んでくださっている皆さんも咀嚼できたかしら。

無条件の愛ってワードを触りに行く

あなたは「無条件の愛」について考えてみたことがありますか。
私は以前、恋人に自分を「無条件に」愛してもらおうと苦悩したことがあります。
けれど今は、誰かを好きだと思う気持ちに必ず条件が伴っていると思っています。
だって!自分の愛する人が顔も身体も性格も全く違う人になった時、これまでと同じように愛せないと思うからです。
何をもって「その人」と判断するのか、それは決め手となる条件をその人の中に見出しているからに違いありません。

しかしながら、私の大切な彼(犬)の死を理解するのと同時に再び「愛」について思考を巡らせると、どうやら私が彼を大切に思っていた気持ちに「〇〇だから」という条件は無いように思えてきたのです。
確かに、ずっとそばにいてくれたからという理由を挙げることはできますが、それはあくまでも「私の一部」になった理由にすぎず、既に私の一部となった彼の優しさがもう見られなくなっても、姿形が変わっても、彼を愛しく尊く大切に思う気持ちに一切変わりはありません。

名言の真髄を覗く

私はこれまで、「愛されたければ、まずあなたが愛しなさい」という言葉の指す「愛されたい対象」は他者であると思ってきたのですが、実は自分の愛に飢えている人の方が、他者の愛に飢えている人よりもずっと多いのではないか、と思うのです。そして私は今回の一件があったことで、むしろそちらの意味なのではないかな、と強く思うようになりました。
ですから、この言葉も「愛されたければ(自分を愛したければ)、まずあなたが愛しなさい(他者を愛しなさい)」と捉えることにします。

そうすると、不思議とこれまでずっと十分に理解のできなかったこの言葉の意味や正当性が論理的に自分に落とし込めるようになりました。先のブロックでも述べた通り、他者が自分の”一部”になる程に大きな存在となれば(大切に思えば)、それは自然と自分をも無条件に愛し、大切にすることになります。
ほらね!なるほど〜って思ったでしょう?

今これを書いていて思ったのですが、私の説いた「自分の一部の他者を大切に思う気持ちが無条件の愛」という説が正しければ、「自分に対する愛」が自己愛ということになります。マザーの仰ったこの言葉は、もしかしたら自己愛を見つけるための最も手っ取り早い方法を伝えるためのモノだったのかもしれませんね。

言葉の正当性=自己愛が人生を超絶豊にする理由

最後に、タイトルの解を持ってこようと思います。読み飛ばした方もいるかもしれないので、再び定義と問いを明確にしておきます。

定義:マザーテレサの「愛されたければ、まずあなたが愛しなさい」という言葉は、自己愛を手っ取り早く見つけるための方法である

問1:この言葉の正当性はどこにあるか。
問2:なぜこの言葉が人生を超絶豊かにするのか。

はい。問1の方は既に散々語っている通り、大切な人を思うこと=自分を大切に思うことであると身を以て実感したので、「自分に愛される」という目標が他者を愛することで達成されています。はい、正当。

問2ですが、連立方程式の代入的な考え方をすると(わかりやすくすると)、問われているのは「自己愛は何故人生を豊かにするのか」ということです。

自己愛はあらゆる面で最強です。
私のこれまでの記事を読んでくださった方は、なんとなくその強さを認識して頂けていると思うのですが、自己愛とは即ち「自分を味方にすること」と同義であり、あらゆる面で他者に頼らずとも強く在れます。
何か(自分を好きでいてくれる他者や名誉、権力など)を介さずとも、自分本来の素晴らしさをセルフで認めている人は魅力的です。
なぜなら、正直だからです。先ほど「自己愛とは無条件の愛である」と述べましたが、無条件というのは何か理由があるわけではない、ということなので、素で素敵ということになります。
「私はそのままで最高だ」と思ている人は自信があり、それによってキラキラしているので、ただでさえ魅力的ですし、自分にないものを持っているということにもなるのでめちゃくちゃ惹かれるわけです。最強でしょ。

自己愛が最強である話は尽きないのでこの辺にしておきます。

この一件で痛感したのは、心から大切に思える他者の存在を持つ人はとてもつもなく幸せなんだあということです。
最後まで読んで頂いてありがとうございました。



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