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「日本新聞」を購読する南方熊楠

 以前に『熊楠研究 第七号』(2005年)に収録されている田辺市出身の実業家・辻󠄀清吉と南方熊楠の書簡を以下の記事で紹介した。この書簡のやり取りには他にも興味深い点があるので、該当する部分を以下に引用してみたい。

大正十五年三月六日午後一時 辻󠄀清吉様(前略)新紙「日本」は毎日安着、上方の新聞とちがひ入りもせぬことをかかず、さつぱり致し居り、病人なる忰によませても何の害毒なく甚だ結構に有之候。(中略)此「日本」の社説は大略小生と同説にて、今日みそもくそも西洋の事といへばよきことのやうに心得る輩を攻撃するは尤も千万の事に存じ申候。(後略)
大正十五年三月九日午後七時 東京日本橋区千代田橋際 辻󠄀清吉様(前略)拝呈「日本」新聞紙毎度御恵贈相成り、此の片いなかに居て日々東京及ひ全国の事況を手短かく心得るを得候段、誠とに奉感謝候。(中略)「日本」紙は十五分もかかれば題目たけは眼を通すを得、自分に必要なる事項たけえりぬき精読致し大に手早く事すみ申候。(後略)

上記引用文中に登場する「日本」は、書簡が出された時期を考慮すると拙noteでも何回か取り上げたことのある小川平吉が主宰で国家主義的な言論活動を展開していた『日本新聞』のことであろう。『熊楠研究 第七号』の南方・辻󠄀書簡の解説によると、1926年2月に辻󠄀が『日本新聞』と50円を南方に送付したことがきっかけとなって交流が始まったという。辻󠄀は『日本新聞』を南方に「永代無銭」で送付していたようである。

 興味深いのは、南方の『日本新聞』への評価が高そうなことである。書簡という形式のため、無料で送付してもらっている辻󠄀への感謝やお世辞でもあると考えられるが、雑誌『日本及日本人』へ多くの文章を投稿していた南方なので、『日本新聞』に共感できる部分も少なからずあったであろうと思われる。

 余談だが、南方熊楠記念館で実施しているクラウドファンディングの目標が達成された。資料の修復や整理が進みそうなので一安心である。次の目標に向かっているので、興味のある方は一読いただきたい。



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