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鶴見俊輔「言葉のお守り的使用法について」に関するメモ②―初出から考える

鶴見俊輔「言葉のお守り的使用法について」鶴見俊輔のデビュー論文であるが、この論文の初出は『思想の科学』創刊号(1946年)でその後様々な書籍に収録されている。(創刊号は国会図書館デジコレの図書館・個人配信で閲覧可能)しかしながら、この文章は初出の状態でそのまま収録されているわけではなく、著作集に収録される際に書き改められていることが再読していて分かった。以下に書き改められた部分の一例を引用してみたい。

(前略)即ち、言葉のお守り的用法の盛な事と、大衆の言語解釈能力の低劣な事とは、不可分の関係に立つものである。
『思想の科学』創刊号より
(前略)言葉のお守り的使用法のさかんなことは、その社会における言葉のよみとりの能力がひくいことと切りはなすことができない。
『鶴見俊輔著作集3』(筑摩書房、1975年)より

ここで登場する「言葉のお守り的用法」とは、自分の発した主張に正統と認められている価値体系を代表する言葉を付属させて自分の主張を(本当にその主張が正しいものであるかどうか明確でないとしても)あたかも正しいようにみせる使用法である。この習慣が広まっているかどうかは人々の言語能力に依存するということがここで鶴見の言いたいことである。

 興味深いのは、初出と著作集に収録されているもので大きく変更された部分がある。著作集の解題では、『日常的思想の可能性』に収録された際に漢字を少なくし、言葉づかいをあらためたと記載されているが、上記で引用した部分はこれにとどまるものであろうか。初出の表現は、現在の目線でみると後年鶴見は積極的に評価しようとした人びと(人民、大衆)を軽蔑していたように読み取れる。もっとも、当時の言論人・思想家の常識や鶴見が日本語で論文的な文章を書き慣れていなかったということも考慮する必要があるだろうが。

 ここまで紹介して思い出したのは、荒木優太さんの以下のツイートである。このことは別の方によって、すでに紹介されていたようである。

 最後に補足させていただくと、私の関心は、鶴見が上記に引用した初出のような表現を使用していたことを批判したいのでなく、初出から著作集の間の表現の変化から鶴見の思想がどのように変わったか、後年の私たちが知る鶴見の思想がどのように形成されたかということにある。

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Theopotamos (Kamikawa)
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