ラブレター蒐集家・池田文痴庵、南方熊楠に面会謝絶される
南方熊楠の日記は長年翻刻が進められているが、1885~1913年までの日記が八坂書房から出版された以外はまとまった形で出版されたことはなかった。(ただし、まとまった書籍としてではないが、『熊楠研究』第6~8号には1919年の熊楠の日記が紹介されている。)しかしながら、昨年『南方熊楠日記[昭和六年・七年]』(南方熊楠顕彰館、2023年)が刊行されてこの時期の熊楠の活動が明らかになった。
別件の調査でこの日記を読み進めている際に意外な人物が登場して驚いた。以下に該当箇所を引用してみたい。
詳細は分からないが、池田文痴庵(池田信一)と熊楠が書簡でやり取りしている。池田は「軟派十二考」第1巻の『蘿舞連多雑考』(文芸資料研究会編輯部、1928年)を出したラブレターの蒐集家もしくは菓子史の研究者として知られているが、以下の記事で紹介した『変態趣味研究家名簿』では「東京市 池田文痴庵 我楽苦多一切」と記載されており、ラブレター以外にも様々な物を蒐集していた趣味人である。
そして上記引用部分に登場する『冥福』は池田が発行していた個人誌である。『南方熊楠邸資料目録』(南方熊楠邸保存顕彰会、2005年)によれば、熊楠の蔵書には『冥福』第2、4、41号が含まれている。第2、4号は上記に引用したように7月23日に送付されたものだろう。16号はどこへ行ったのだろうか。
このやり取りの後しばらく池田の名前は熊楠の日記に登場しないが、九月三十日の条に以下のような記述がある。
何と池田は熊楠邸を訪問して面会しようとして断られていた。酒井潔は自分の雑誌『談奇』の第1冊第5号(1930年)に投稿した「南方先生訪問記」に紹介状を持参したにも関わらず一度面会を断られたこと述べているが、池田は紹介状を準備していたのだろうか。酒井によれば、熊楠と面会するのは非常に難しかったようなので、池田は熊楠と交流が薄く忘れられていたため面会できなかったのだろう。その後両者の交流は続いたのだろうか。上述のように熊楠の蔵書には『冥福』第41号が含まれているので交流が続いた可能性はあるだろう。