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南方熊楠と社会主義者―幸徳事件から山本宣治まで
今日(5/18)は南方熊楠の誕生日であるそうなので、南方に関して以前少し調べたことに関して簡単に記事にしていきたい。
南方熊楠は社会主義者と交流があったことは知られている。例えば、『南方熊楠百話』に収録されている杉中浩一郎の「南方熊楠と大逆事件」という文章によると、幸徳事件で死刑判決を受けた成石平四郎と南方は直接会い、キノコの採集を依頼していたという。また、仏教者であると同時に、幸徳秋水などの社会主義者・無政府主義者の記事を掲載していた牟婁(むろ)新報の社長でもある毛利柴庵と生涯交流があった。
同じ『南方熊楠百話』に収録されている須川寛文の「さればこそ田辺中屋敷町五十一番地周辺」によると、南方は山本宣治の著作も読んでいたようだ。山本宣治は労働運動を指導する、労農党から出馬して衆議院議員になるなど政治家として一面を持つ一方で、性に対する態度や調査の研究、性教育や産児調整の普及を行っていた。(注1)南方の蔵書をウェブ内のデータベースで検索してみると、以下の山本の蔵書が確認できた。
『山峨女史家族制限法批判』(産児調整を普及するパンフレット) 2部
『人生生物学入門・性教育私見』
『性教育』
南方は、柳田国男が触れなかった人々の性の問題に大きな関心を持っており、山本の本もそのような関心から手に取ったのであろう。南方と山本は交流があったのだろうか。上記のデータベースで書簡や来簡を調べてみたが、山本のものは確認できなかった。彼らの間に思想的、学問的な交流があったかどうかは知りたいところだ。
山本は1929年に国家主義者によって暗殺されてしまう。この前後は自由主義・社会主義思想の弾圧が強化され、近代日本の曲がり角となった時代であった。そのような時代でも南方は、少なくとも山本の思想的な面はあまり気にしていなかったように思われる。
(注1)『民間学辞典 人名編』鹿野政直・鶴見俊輔・中山茂編を参考にした。
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