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南方熊楠とも交流のあった謎の社会運動家?本多季麿

 先日更新した以下の記事の追記で述べたように、本多季麿という人物が南方熊楠と交流があったということをご教示いただいた。南方熊楠顕彰館のウェブページで閲覧できる所蔵資料・蔵書一覧で確認すると、本多季麿からの来簡が10通所蔵されていることが分かる。南方と本多季麿は確かに交流があったようである。

 ところで、本多季麿とは何者なのだろうか?ウェブで検索してみてもまとまった情報は出てこなかったが、断片的な情報から昭和前期までの社会運動に関係していたらしいということが分かった。『近代日本社会運動史人物大事典』(日外アソシエーツ, 1997年)には立項されていないが、高瀬清の項に「1920年5月に高津正道、中名生幸力、本多季麿らと暁民会を結成」と記載されており本多の名前が確認できる。また、『歴史と神戸:神戸を中心とした兵庫県郷土研究誌』21巻5号(通巻114号)(神戸史学会, 1982年)に「奇人・本多季麿」直木太一郎という論文が収録されており、先行研究があることが分かった。以下にこの論文の中から興味深い部分を抜粋するという形で本多の生涯を紹介していきたい。

(前略)この老人が沛亭外史と呼ばれる神戸の奇人本多季麿である。昔下山手通六丁目にあった本多病院の院長で神戸市医師会の初代会長であった本多公敏、その末男が季麿である。(中略)質実剛健の神戸一中に在学中は、孤高をきめ込み教師からにらまれて、あまり良い生徒と思われなかったらしい。早稲田大学の文科へ入学するや、俄然鋭鋒を現わし、得意の作文「我が郷土の伝説」というのが内ヶ崎作三郎教授の目にとまり、『六合雑誌』に、沖野岩三郎の小説を並んで載せられ、一挙に名を売ったのであった。(後略)

 いくつか補足したい。本多は早稲田大学に入学したと述べられているが、『早稲田大学校友会会員名簿』(1935年)を確認しても本多の名前は載っていないので、おそらく早稲田大学中退であろう。また、キリスト教系の雑誌『六合雑誌』に投稿して注目を集めたようであるが、『六合雑誌』の書誌データが収録されている「ざっさくプラス」で検索してみても本多が投稿した文章はなかった。目次に掲載のない文章であったのだろうか。

(前略)友田恭助を新劇に入れたのは、この本多季麿であった。新劇運動が有楽座によって行われていた頃、松井須磨子自殺の後をうけて、秋田雨雀が早稲田の文科で、畑中蓼披を舞台監督として新劇をやらんかとすすめるので、本多季麿は同級のブルジョアの息子友田恭助が、左団次の芝居の真似がうまかったので、説いて新劇に入れてしまった。山本宣治を左翼に引き入れたのも本多季麿であった。早稲田に在学中、医者で性慾の大家羽太鋭治が村上浪六型の壮士タイプであるのに目をつけ、同級の高津正道を引き合せて、「セックス」ものの翻訳で高津に金をもうけさせたほか、サンガー夫人の産児制限運動を利用して、ペッサリーを売って資金を稼いでいた三田村四郎を、性学者山本宣治に引き合わせたのであった。(後略)

特に友田恭助や山本宣治のその後の人生を変えるきっかけをつくったのが本多であると言えるだろう。

(前略)彼の家へは外人の出入りがしげく、バンコック駐在インド大使として活躍したA・M・サハイも彼の盟友であった。(中略)パキスタン生まれで回教アフマデアハの宣教師ニアズも、また本多季麿の友人の一人であった。(中略)シリアから来ていたコレアード・ベイという人、(中略)本多季麿はこれとも神戸の回教寺院で知りあい、(後略)

理由は不明だが、本多がアジア地域の人々と広く交流していたことが分かる。アジア主義の関係者とも何らかのつながりがあったのだろうか。

(前略)終戦間もなく身体をそこねて営団(筆者注:本多は戦時中兵庫県食糧営団に勤務していた。)をやめ、出口王仁三郎を頼って赴き、そこで健康をとりもどし、其の後転々し、姫路や奈良や遠くは鎌倉の新興宗教の本部に行ったりしていた(中略)雀百までで朝鮮の志士と交わったり台湾独立運動に参加したりしていたが、台湾共和国臨時政府の大統領廖文毅は独立の夢を捨てて、蒋介石と共に「反共復国」に挺身することに踏み切り、神戸のオリエンタルホテルでその決意を同志に打ち明けたのであった。

大本教の出口王仁三郎や新興宗教との関わりがあったことが分かる。また、戦後も東アジア地域の民族運動を支持していたようだ。

昭和五七年四月二十八日本多季麿は八尾市の病院でなくなった。享年八十三、私(筆者注:論文の著者・直木太一郎のこと)と同じく明治三十二年、西暦一八九九年の世紀末の生まれであった。

上記に引用したように生没年も紹介されていた。

 以上から本多は社会運動家、アジア主義者、宗教者など多方面の人物と交流があったことが分かる。今回紹介した論文では、友田恭助と山本宣治に大きな影響を与えたことが強調されているが、他にどのような人物と交流があったのかは気になるところである。また、南方とは書簡のやり取りがあったが、なぜ交流がはじまったのだろうか。論文から本多は性に関する事象に関心を持っていたと推測されるが、この共通の関心からやり取りがはじまったのだろうか。いずれにしても本多はさらに調べてみるとおもしろそうな人物である。

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