澤田四郎作の日記に登場する性の民俗研究者?豊田秀雄について
澤田四郎作は柳田国男、宮本常一、渋沢敬三など著名な民俗学研究者と交流があり、大阪民俗談話会を主宰して関西の同好者に交流の場を提供したことで知られているが、以下の記事で紹介したように、澤田は性に関する民俗にも関心を持っており、雑誌『Phallus-Kultus』を発行していたり、梅原北明作成の名簿に載っていたりする。
澤田の性に関する民俗関連の交流の一端は、澤田の日記である『日誌』でも見られる。以下の記事で紹介したように『日誌』は一部がWebで閲覧することができるが、大正15年10月から昭和2年4月の日記中の11月29日の条に「岩代国信夫郡佐倉の豊田秀雄氏より、グシにしばりつける陽物の実物寄贈さる。」と述べられている。この豊田秀雄という人物は当時少し調べたが、よく分からなかった。
先日、このことをたまたま思い出して国会図書館デジコレで調べたところ、『福島県教育名鑑』(福島県教育新聞社、昭和3年)の「教育家名鑑之部」に豊田が以下のように立項されているのを発見した。
豊田は顔写真付きで掲載されている。澤田の『日誌』には「岩代国信夫郡佐倉」とあるので、この豊田と同一人物であろう。性に関する民俗は趣味として載せるにはふさわしくなかったのだろうか。
ところで、豊田と澤田は性に関する民俗という共通の関心から交流していたが、このような研究ネットワークが民俗学を一学問として成立させようとしていた柳田の活動の以前もしくは並行して存在していたのは興味深い。柳田は性に関する民俗を自身の民俗学から遠ざけようとしていたが、澤田のように柳田の周辺にいながら彼の嫌った性に関する民俗学、(郷土玩具などの)土俗趣味に通じていた人びともいる。彼らは「隠れ反柳田学徒」とも呼べるだろうか。
いずれにしても、性に関する民俗学、土俗趣味を切り分けようとしていたのは柳田と一部の柳田学徒のみで、他の人びとにとってはあまり明確な区分ではなかったのだろう。よって、性に関する民俗研究のネットワークも民俗学を形成する上で重要であり、継続して検討が必要であると私は考えている。