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ベルリンと森鴎外

ベルリン旅行

 ドイツ移住後の初めてのブログを書く。移住の経緯や動機、その他諸々はおいおい記そうと思う。

 ところで今、このブログはベルリンからの帰りの電車の中で書いている。私が住んでいるのがデュッセルドルフというドイツ西部で、電車で5時間ほどの距離。料金は片道50ユーロだから、東京⇔大阪間の新幹線の半額といったところか。余談だがJ R東海は利益率が50%くらいある会社でそのほとんどが東海道新幹線の収益によるもの。国鉄分割民営化時の葛西氏の政治力がいかに優秀だったか分かる。特に、現在のJ R西日本の惨状を見ていると。

 話はそれたが、タイトルにあるように、ベルリンを3日間観光で訪れた。だいたい、一人旅をする際は事前に何をするかは決めない。予定をきっちり詰められてしまうと、疲れてしまう。宿泊も、8人部屋のモーテル(1泊50ユーロ)と、大学の一人旅を思い出すような旅を敢行した。

 別に旅を「敢行する」というほど大袈裟なことは何もしていないのだが、まぁ個人の収益化もしていないブログということで許して欲しい(笑)

 ベルリンはご承知の通り、1989年まで、東西に分裂していて、東ベルリンは東ドイツの首都だった。第二次大戦後、敗戦国である日本はアメリカによる間接統治、旧ナチ・ドイツはソ連とアメリカ・イギリス・フランスによる分割統治を経験する。東ドイツはソ連の傘下にあったから、計画経済が敷かれていたし、シュタージと呼ばれる秘密警察が暗躍し、言論の自由はなかった。映画では、「グッバイ・レーニン」や「善き人のためのソナタ」に詳しい。

 ベルリンの壁崩壊後は、東西の経済格差は減ったものの、今でも旧東・西で生活に対する考え方や「ドイツ観」はかなり異なるらしい。正直、ドイツに住み始めてまだ2ヶ月なので、詳しいことはまだ分からない。

 ベルリンは、私が住んでいるデュッセルドルフよりもインターナショナルなエリアだと感じた。観光客も多いし、人種も多様。街でも普通に英語が聞こえてくる。なんでも、旧ソ連の影響下にあった地域では戦後のアメリカ文化に対する強烈な憧れがあったようで、コカ・コーラやジーンズが東西統一後に堰を切ったように入り込んだらしい。街中でも異常なまでの「コーラ推し」をする飲食店が多かった。

 「壁」崩壊後は、ベルリンで大規模なコンサートが開催され、ピンクフロイドなどが音楽を鳴らしたそうだ。なんだか、薄っぺらい統一だと言えば怒られるのかもしれないが(笑) 

 そんなベルリンは、森鴎外が1880年代に留学した地域として知られている。当時のベルリンは普仏戦争勝利後まもないドイツ帝国の首都。鴎外は、大日本帝国陸軍省派遣留学生としてフンボルト大学に赴いた。鴎外はそこでコッホなどから細菌学を学ぶ傍ら、文筆活動に勤しんだ。「舞姫」はあまりにも有名だ。

鴎外の文体、ドイツ人ガイドとの会話

 現在ベルリンの鴎外の下宿先だった場所は「森鴎外記念館」として改装、展示されている。そこで勤務する、日本への留学経験があるドイツ人と小1時間くらい、色々と話し込んだ。コロナ騒動のこと、ウクライナ情勢とドイツの立ち位置、同じ敗戦国であるドイツと日本の今後・・・等、私と全く同じ価値観を共有していたわけではないが、同じように考えている部分もあって、嬉しかった。

 彼は、鴎外が日本文学の発展に果たした役割の大きさをよく理解していた。曰く「鴎外は、日本文学に『西欧』をインテグレートした文体を発明した」。

 かつて三島由紀夫は鴎外の文体が日本人としては理想であり、戦後鴎外よりも夏目漱石が日本のインテリに好まれるようになったことを嘆いていたことを思い出した。「鴎外のスタイル(文体)を採用すれば、何でも書けるんですよ」(三島由紀夫)

 ドイツ人ガイドの彼は、鴎外は実は帰国せず、ベルリンに残りたかったのではないかと話していた。「色々と彼がベルリンで書いた論文を読んでいると、非常に自由な発想で研究に取り組んでいたように思うのですよ。帰国後、鴎外は様々な作品を書きますが、例えばキタ・セクスアリスは発禁処分を受けます。研究面でも、色々と制約があったみたいですね」

 そんな彼の発言に対して、私はこう返答した。

 「でも鴎外は、『堺事件』を書きましたね。もちろん、日本の封建社会に対する複雑な心境はあったのでしょうが、一概にそれを唾棄するような考えは彼の中にはなかったのではないでしょうか」

 すると彼はこう言った。

「鴎外が堺事件を書かなかったとしたら、あのようなことがあったことは、私のようなヨーロッパ人はもちろん、日本人も知らなかったでしょうね。思うに彼は、外的な制約はあれど、精神に制限はかけなかったのではないでしょうか。学問と芸術の自由を鴎外が何よりも大事にしたのは周知の事実です。私は鴎外を芸術至上主義者だとは考えていませんが、彼の文体とその自由な探究精神が、日本文学を前進させたことは間違いないでしょうね」

ファウストと鴎外

 記念館には、鴎外が1912年に取り組んだゲーテの「ファウスト」の訳文も展示されていた。件のガイドが「鴎外はそれまでの『ファウスト』訳がひどい、と言って怒っていたらしいですよ」と教えてくれた。

 鴎外はファウスト訳に取り組んだ時の心境を以下のように記している。

 「私は誤訳をしたのを、苦心が足りなかったのだと云つた。そんなら私が、もつと物に念を入れる性質で、もつと時間に余裕のある境遇にいたら、誤訳をしないだろうかと云ふに、私はさうは思わない。人間のする事業に、過誤のない事業はない。書物に誤訳のない書物はない。翻訳に誤訳のない翻訳はない。ある筈である。それをあらせまいと努力する外ない。私は私の性質と境遇との許す限り、此努力をしようと思ふ」

 明治の日本人の苦心と意志が伝わってくる文章である。最後に、記念館の玄関口に記されていた「舞姫」の中の一文を紹介して、ブログを締め括ろうと思う。

 「げに東に還る今の我は、西に航せし昔の我ならず、学問こそ猶心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしを知りたり、人の心の頼みがたきは言うも更なり、われとわが心さへ変り易きをも悟り得たり。きのふの是はけふの非なるわが瞬間の感触を、筆に写して誰にか見せむ」

#わたしの旅行記

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