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あこがれの存在を完コピする
「3年勤め学ばんより3年師を選ぶべし」
中国のことわざらしい。3年かけて独学で勉強するより、3年かけて師匠を探したほうがいい、という意味。学びはしかるべき他者から、ということでもあります。
師匠に選ぶ基準として、実績があるかどうかは決定的に重要。ですがそれが一過性なのか、それとも継続的なものか(もしくは、これから継続性が見込めるかどうか)もあわせてめちゃくちゃ大事だと思います。短期的に結果を出すことは、実はそんなに難しいことではありません。ところが長期的ともなると、成功者の出現率は極端に下がります。
そして長期的にものすごい実績をあげている人でも、「やり方」はひとそれぞれ。自分の価値観に合致するかどうか、強みが似ているかどうか、そしてリスペクトできる人かどうかも見極める必要があるでしょう。なぜなら、仮に実績があっても、イマイチ好きになれない人を師匠にしても学びを得られないから。対象が好きだからこそ、一緒にいたい、側にいて学びたくなるんだと思います。
裏を返せば、「学ぶ基準」は無視できないということ。つまり、Twitterをエゴサーチして、実績がありそうな人を手あたり次第フォローするのは得策ではありません。たとえ実績がすばらしくても、やり方が自分とまったく違う、もしくは本質的な考え方がリスペクトできないのに、表面的な実績をもとに成果を出したやり方を学んでも混乱するだけ。
Twitterをみていると頻繁に、「成果の共有」に出会います。「こんな成果を出しました!」的なやつ。私も少ない成果を誇示したこと、一度や二度ではありません(恥ず)
そんな成果の安売りをテキトーにつまみ食いばかりしていると、混乱して脳や精神がバーンアウトしてしまう。一貫性がとれなくなって成果も出しづらくなるのではないでしょうか?自分の成功パターンを過度に一般化して、汎用性のない論理を発信している人はけっこう多い印象があります。そんな人から学んでも、そもそも感性や感覚が違えば学びが停滞してしまう恐れがあります。
日本の伝統芸能、もしくは職人の世界では、「師匠の背中を見て育つ」という概念がある。弟子になって十数年、一度も寿司を握ったことがない、という話を聞いたことがあります。皿洗い、盛り付け、大根の皮むき、そしてようやく卵焼き。そんな段階的な文化に嫌気を指して逃げ出す人も少ないでしょう。ですがこの弟子制度。メリットも多いと感じています。
あこがれの師匠。価値観や感性、感覚が似ていてリスペクトできる人。その人のそばにいると聞こえてくる「口ぐせ」つまり「言語体系」は、師匠の認識であり、意思決定基準や行動規範でもあります。おどろくべき成果を、長期間出し続けているメンターの「口ぐせ」を模倣できるのは、弟子の特権でもあります。
わざわざ弟子入りしてしんどい思いをせずとも、YouTubeで寿司の握り方を知ることができる便利な現代。ですがオンライン上で師匠の「口ぐせ」を刻一刻インストールすることはできません。お寿司屋さんが繁盛するのは、お寿司の握り方にすべてを依存しているわけではなく、たとえば職人の接客、言葉づかい、立ちふるまいがお客さんお尊敬を集め、集客に貢献することもあります。寿司を握る技術以外の要素が無数にからみあって長期的な実績が構成されているわけです。だからこそオフラインの学びは希少性があっておろそかにできないと思っています。
「守破離」
日本の茶道や芸道、芸術における師弟関係のあり方。師匠から教わった型を「守る」ところから修業がはじまり、型を身につけた者が、もうこれ以上模倣しきれなくなって、よりよいと思われる型を模索して試すことで既存の型を「破る」、さらに修練をかさねてかつて教わった師匠の型にとらわれることなく、型から「離れて」あたらしい流派が誕生するというプロセスです。
「3年勤め学ばんより3年師を選ぶべし」
独学で成果を求めるのであれば、まずは「型」を固めること。そして型づくりは師匠のすべてを完コピすることで成立すると思われます。
久保大輔