すべてのサッカークラブが「勝者」になる世界を創る
昨日の投稿では、
センスが「差別化要因」になる、
その理由について書いてみました。
センスは人それぞれ。
100人いれば100通りのセンスが存在します。
そして今日は、
「こうあるべき」ではなく、
お互いのセンスを尊重し、認め合い、
センスに支えられたミッションマネジメントで
すべてのクラブが「勝者」になれる、
そんなサッカークラブの「未来のあり方」
について論じていきます。
■センスとスキルの違い
お寿司をにぎるスキルを勉強し、
お品書きどおりにお客さんに提供し、
味はソコソコ、おいしい。
そんなお寿司屋さんは
長く繁盛し続けるられるでしょうか。
一方、
スキルは当然のこととして、
天候やネタの鮮度、シャリの温度、
室温や湿度、客層などあらゆるデータを
総合して浮かび上がる直感を信じ、
スキルやルールを無視してでも
「おいしい」
と大将が信じるお寿司
を提供しようとするお店。
個人的には、
後者の方が、よりたくさんの人が集まるのではと、
大いに期待してしまいます。
ネット上には、
握り方(スキル)を鮮明に収録した動画が
無数にアップされています。
お寿司を握る「正解」は
誰もが容易に知ることができる便利な世の中。
ということは、
寿司を握るスキルがある人は、
無数に量産されている可能性があり、
一昔前と比べて
「寿司を握れる」という希少性、価値はなくなり
スキルによる差別化は
誤差の範囲でしかなくなった、
といえるのではないでしょうか。
(これは寿司に限った話ではありません)
もはやスキルは、
マイナスの凹みをゼロにするだけであり、
これからは、
「ゼロの状態からいかに全体を構想できるか」
というセンスが
貴重な差別化要因となるはずです。
昨日も記した通り、
センス磨きにウルトラCはなくて、
センスある人のそばで観察し、マネをして、
失敗して試行錯誤して、
といった地道な努力と
一定の時間が必要になります。
寿司職人の背中を見て育つお弟子さんが
ネタやシャリに触れるのは弟子入り後数年してから。
そんな話を聞いたことがありますが、
日本の食文化の継承においても
「長期間のセンス磨き」
が欠かせないのであろうと、
自分なりに解釈しています。
ネットを見れば
誰でもお寿司は握れるようになりますが、
「代わり」はいくらでもいるという現実。
「余人をもって代えがたい」存在になるには、
長年のセンス磨きをおろそかにすべきではない、
というのが私の見立てです。
■センス磨きの成果は「後になって分かる」
昨日書いたように、
私自身にも、
センスある人に何度も会いにいって
教えを請い、持ち帰っては試すという
修業の期間がありました。
(今も修行中の身ですが)
そのときはただひたすら、
教えを形にして、また教えを形にして、
を必死に繰り返すのみ。
そして今振り返ってみると、
「あのときこういうことに取り組んで、
たくさんミスしたけど、新しいことにトライしたり、
あれこれやったことで少しずつセンスが磨かれ、
今の自分のスタイルが確立された」
ということが分かります。
でも当時は絶対に、
こういった整理はできなかったはず。
一方センスある人には
当然のことながら
「全体像」が解像度高く
はっきりと見えていたに違いありません。
それぞれのピースは、
デザインや形がまるで違うけど、
すべて適切な場所におさまれば
ひとつの完成品になる「パズル」のように、
部分部分はバラバラに見える
それぞれの取り組み。
だけど最後は
すべてがカチッとハマる。
最終的な仕上がり
のイメージが見とおせる「センス」
今になってようやく
私にもぼんやりと見えるようになってきました。
苦節10年弱といった感じでしょうか。
それぞれのピースをつくるスキルはあっても、
全体をイメージするセンスがなければ
パズルは完成しません。
そしてその、全体を見渡すセンスは
確固たるコンセプトをベースに発揮されます。
パズルの絵は
日本画なのか西洋画なのか。
自然なのか建造物なのか。
平和なのか戦争なのか。
よって立つコンセプトがなければ
全体構想を描くことはできないのです。
余談ですが、
「分業制」で絵本を作る
キングコングの西野亮廣さんは、
各担当者に、制作に先立って
「音楽」を聴いてもらうそう。
西野さんが描く「世界観」を
音楽というコンパスで示し、
色や光の具合などデザインの指針を規定します。
人の手でつくられていく「部品」なので、
いろんな「矛盾」が生じることでしょう。
そんなときは
「最後は俺がちゃんと答えだすから、
とりあえずやることやってくれ」
という西野さんのリーダーシップが
メンバーの不安をかき消すんだと思います。
分業だけど分断しない。
ひとりでは何もできないということを
誰よりも自覚したうえで、
奥行きある世界観や全体構想を
すべて論理でつなげているのです。
■全クラブが「勝者」になるという世界
自分のコンセプトや世界観、
組織だったらミッションなど、
自らの価値基準に自信がない。
そういう人は法則(スキル)を求めます。
スキルというテンプレートを用いた
資料作りなんかも得意。
でもそれは今や
誰もができる「作業」であり、
本当の仕事にはなりえません。
スキルは必要ですが、
スキルだけだと差別化に限界がある。
正解を出すことはもはや
誰もができることなのです。
他人、他社と同じことをして争っても
行き着く先は価格競争しかありません。
そんなレッドオーシャンから逃れるための
ミッションという価値基準。
サッカークラブが掲げるミッションには、
「こうすべきだ」というものは存在しません。
千差万別、
クラブ独自の色があってしかるべき。
クラブAはこの色、クラブBはこの色、
でも僕はBよりAが好き(以上!)
そこに「あるべき論」が挟む余地は
一ミリもありません。
ひとつの尺度ではかれないものであり、
序列化もできない。
サッカークラブにはそれぞれのミッションがあり、
相互に差異があって当然です。
だからこそ全クラブが勝者になり得る。
というか勝者であらねばならないと考えています。
勝者の定義は無数にある、
フラットで建設的な世界。
これがこれからの、
サッカークラブのあり方ではないかと思っています。
クラブと顧客にとって
なくてはならない独自の価値をつくり、
ポジショニングですみわけをして、
みんなが勝てばいいんです。
「あるべき論」といった、
なんとなく潜在的に刷り込まれたルールに従って、
そこでひたすらがんばるのではなく、
自クラブに優位なルールをつくって
「勝てる場所」を見つけるべき。
既存のルールをむやみに信じて最適化しようと、
あるべき論という怪しいモノサシを
軽々に使うべきではありません。
■ミッション、全体構想、顧客心理の洞察
とはいえ、
自己陶酔は最悪。
顧客の心理を慮り、
顧客の立場で自クラブを見る謙虚さ。
ミッションを顧客の(顕在化した)意見に
100%委ねる必要はありませんが、
顧客がいまだ気づいていない価値、
潜在的に抱いていながら顧客自身も気づいていない価値、
「何をやってもらったらうれしいか」
を自己客観視を通して
見極めることが大切でしょう。
現時点で見極められないのであれば、
今考えうる最適なミッションを信じて、
ミッションを推進すれば
どんなハッピーエンドが待っているのか。
全体構想をとらえて前進し、
必要な学びや気づきはあとから付け足していく。
そんなスタンスの方が
使わないスキルを山積みにして
右往左往するよりよっぽどまし。
「どうなるかわからないけど、
僕たちはこっちの道に進む」
という姿勢。
「絶対にうまくいく方法」
を求めるべきではないですね。
スキルの習得、具体例の収集は、
なんとなく血肉になっている気がしますが、
しかしながら
ミッション(自分はどこで勝てるのか)がなければ、
無駄や不足に気づかずに努力するということ。
大学生が、
将来プロサッカー選手になるのか、
プロの監督やコートを目指すのか、
学校の先生になってサッカーを教えるのか。
そんなミッション(どこで勝てるのか)なくして、
どんな気持ちで今日の練習に取り組むのか。
真の努力とは、
ミッションを立て、全体構想をイメージし、
部分をひとつひとつ完成させるという姿勢
に現れてくるのです。
■まとめ
サッカークラブにある、
さまざまな仕事は「部分」であり、
それぞれの部分は
スキルをもって処理していくことができますが、
部分をいかに全体にまとめあげるのか。
これからの時代、クラブのリーダーには
全体構想の「センス」が求められます。
そして全体構想が生きるのは
クラブのミッション(どこで勝つのか)次第。
サッカークラブは
リーグタイトルや売上(利益)の多寡だけで
勝敗が決するものではありません。
サッカークラブは
顧客とクラブが信じる「価値」を背景に
クラブ運営という部分を
局部的にみるのではなく、
いかに全体の一部として認識し
全体構想をイメージしながら経営することで
どんな小さな、地方のクラブであっても
勝者になりえるのです。
※本稿は以下文献を参考にしました。
「仕事ができる」とはどういうことか?
(楠木建、山口周)
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