丸ビルのフードコート、マルチカの門戸は広かった。
2月29日(木)。4年に一度のうるう年。
朝からなんとなくこの日が存在していること自体が嘘なんじゃないか、さらにこの日に起きること全てが嘘なのではないかと、そんな思いに苛まれていた。結果、すべてが思い通りや予想通りにならない、不思議な日だった。
お昼頃に出社をした。最寄りの駅で降りて歩いて会社に向かっていると、元上司が目の前を歩いていることに気づいた。歩き方でわかった。
しかし気づいたのは、珍しくスーツではなく、デニムのパンツをはいている、ということである。コロナ以降、服装が全社的に緩くなってはいたが、それでも元上司は毎日かっちりした服、つまりスーツを着ていたので意外さを感じた。ジャケットこそカジュアルダウンせず高級そうなダウンを羽織っていたが、やはりデニムのパンツがあまりにも意外で、歩き方は全く同じだが別の男性なのではないと疑うほどであった。頭頂部に目をやると、以前よりも薄くなっている気がする。あれ、こんなに薄かったっけ。確かに昔から髪の毛いじりをされることを嫌がってはいた上司ではあった。そのため普段から私もあまりじろじろ見ないようにしていたこともあり(というか身長差がかなりあるので目にする機会がなかった)、元からこの薄さだったのかもしれないが、それでもちょっと寂しさを感じる薄さだったので、勝手に感傷に浸っていた。
久しぶりの上司との再会なので、早足で追いついて声でもかけようかな、と思ったのだが、そういえば今日自分のメイクのりがよくない(特に口周りが乾燥して白っぽくなっていた)ことをふと思い出し、こんな顔で声かけるのもな、と心の中の女子が突然顔を出し、気が引けてしまった。コンビニでマスクを買って、装着してまた遭遇したら声をかけよう、と思ったが、もちろんその後会社で遭遇することはなかった。ちなみに購入したマスクはいつもは買わない、肌に優しそうな「シルキータッチ」とうたうものだったが、サイズが男性サイズだったのか大きく、自分の顔のサイズにまるであわず、装着するとかえって不審者感が出てしまったので、結局マスクを着けず一日を過ごすことになった。よくわからない行動をとってしまった。
夜に所用があったので、その前に夜ご飯をささっと食べたいと考え、定時よりも少し前に会社を抜け出した。ちょうど定時間際まで、上司たちは会議が入っていたので、しめしめ、上司の目につかず早めに帰れるぞと思い、エレベーターホールでエレベーターを待っていたところ、他部署の役職者の方がやってきてしまった。大きな荷物を持っていた私に、「お?」という顔を向けてきたので、あ、これから所用があって、と小声で伝え、そそくさとエレベーターに乗車し、一階へと向かった。くやしい、誰にも見かけられず退社する予定が、一人に見つかってしまった。見つけられたことで何か不都合があるわけではないが、想定通りにいかなかったので出鼻をくじかれた気持ちになった。
退社すると、むん、と雨が降る前のにおいがしていた。天気予報を普段見るタイプではないので仕方がないが、案の定傘は持っていない。まだ降っていなそうだし、ご飯場所まで濡れずにたどり着けるかな、と思いながら歩みを進めていたら、ぽつぽつと頭に雨が降ってきた。ご飯時間をゆっくり確保したかったので、歩きを諦めてタクシーを捕まえ、急ぎ丸ビルまでむかった。
丸ビルのB1階には、「マルチカ」(最初変換した際、「マルチか」と変換されてしまいツボに入ってしまった)というフードコートのようなエリアが広がっている。前々から気になっていたので、今日は絶対ここに行くと決めていた。
様々なジャンルのお店が集っているが、中でも目を引いたのは、「タイ料理 沌(THONG)」と「雪梅花」という点心麺飯。タイ料理は都内に複数あるのだが、一時期毎週のように足を運ぶくら大好きだったお店だ。久しぶりの再会で心が揺れたが、何度も堪能したしな、と考え、お初の「雪梅花」に入店することにした。
思わぬタクシー代の発生により、店頭に並んでいるお弁当(タイムセールでなんと500円になっていた)を購入し、フロアの真ん中にあるオープンスペースでご飯を食べることも考えた。しかし、オープンスペースはあまりにオープンで、この粉を吹いた顔を道行く人にさらすことになると考えると、なんだか落ち着かなくなり、結局店内で食事することにした。
入店前に食べログをささっと確認した。食べに行く前に食べログでお店を調べてしまうのはいつもの習慣だ。しかしみてみるとあまり評価が高くない。けっこう塩辛なコメントもある。だが、メニューの「海老ビスクだれビャンビャン麺」がどうしても気になって仕方がない。口コミにさっと目を通したところ、味は普通とかしょっぱいとか単調だとかいろいろ書かれていたが、どうしてもどんな味か気になる。普段、口コミがあまりよくないと入店しないという行動をとる私だが、いつもとは異なり、入店することにしてみた。
実際食べてみると、確かにたれの味は濃かったが、それよりも上にふぁさっと乗っかっている、ビスクだれとやらがおいしい。家では絶対再現できない感じのやつ。個人的に重要なポイントである、野菜の量についてもクリアしている(野菜が好きなので量がしっかりあると単純にうれしいのだ)。肉まんもついていたのでおなかがいっぱいになり、さすがに麺を少し残してしまったが、総じて楽しい食体験であった。何よりも自分を高揚させたのは、自分の舌と心で食べ物とまっすぐ向き合い、冷静に自分なりに判断が下せたことだ。現代社会は、食べログを初めとし、なんでも他人の意見が見えてしまうので、いとも簡単に自分軸を見失ってしまう。食べログのレビューに屈せず入店を試みた自分の勇気、そして挑戦心を称えたくなった。
そして、都内に堂々とそびえたつ丸ビルでさえも、失礼ながら「まあこんなもんか」と思える位の飲食店があることに、安心感も覚えた。都会だからってなんでもクオリティが高くておいしいお店ばかりが入っているわけではないのだ。舌の肥えたハイソな人だけが入れるビルじゃないよ、だから安心してね、と突然田舎に住む親戚に伝えたくなった。
その後、所用で会った方と雑談していたところ、大谷翔平結婚ニュースが話題にあがった。「お相手が変なモデルじゃないといいんですけどねえ」とのんびり話していたが、変なモデルってなんだろうと思った。でも変なモデルでなければ良いなと強く思った。そして「大谷くん」と「結婚」という文字が自分の中でうまく結びつかず、4年に一度のどっきりなんじゃないかと思っている。
いつもと違う日常を過ごした結果、明日は無事にやってくるのか?という謎の疑念を抱え始めている。大丈夫だと思うが、無事に3月1日が迎えられるといいな。お休みなさい。