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力業のドラマをフランス趣味で彩って(クロード・ルルーシュ『遠い日の家族』感想文)

 第二次世界大戦、ヴィシー政権下のフランスにおけるユダヤ人一家の受難と、その背景にある人間模様が主題。主人公のうら若きサロメ・レルネルは、ピアニストである兄のサロモンを愛し、家族とパリで温かい暮らしを送っていた。しかし或る日、アパートの管理人による密告を理由に、一家ともども、父親の友人であるリヴェールの住む田舎町に疎開する。リヴェール家の一人息子であるヴァンサンの執着的な片思いを不気味に感じながらも、次第に彼に惹かれていき、ある出来事を契機に彼と結ばれる。しかし、そこでも何者かの密告に遭い、今度はゲシュタポに連行されてしまい、両親と兄を喪う。

 本作は、後に小説家となった彼女が、その事件を書いた自作の出版にあたりインタビューを受けているシーンから始まる。インタビュー中の彼女の追想を通して描かれる事件の前後、つまり過去が上映時間の大半を占める。ただし、過去は現在へと真っすぐ進むのではなく、時系列が彼女のナラティヴに従って入れ替えられるし、他の登場人物にフォーカスして描かれることも、また入れ子状に起こることもある。[i]この辺りは小説的である。ヴァージニア・ウルフが好んで用いた手法を思わせるし、フランスに引きつけてみれば、クロード・シモンと言えなくもない。おそらく、サロメの架空の小説を映像化したという仕立てなのだろう。
 シモンを引き合いに出したが、ヌーヴォー・ロマン的ではない。脚本は決してむずかしくはない。ミステリーとサスペンスの混淆である。誰そ密告者は、という謎が鑑賞者の注意をつなぎとめ、豈図らんや、という解決を与えられる。それが序破急のテンポで描かれる。とりわけ、終盤は監督のクロード・ルルーシュもさぞかし筆が乗ったことであろう、ダイナミックでドラマチックに仕立てられている。
 否、筆が滑っている。本作の脚本は、確かに感情を揺さぶりはするけれど、無理が生じているのである。ここでネタバレをすると、第二の密告者はリヴェール夫人である。彼女は自分の夫がレルネル夫人に恋慕しているとの疑惑を抱き、さらに愛する一人息子がサロメに取られてしまうことを嫉妬し、サロメ達を追い出そうとしたのである。そして、収容所から帰還したサロメがパリに発つ列車のなかで真実を打ち明け、悔恨のあまり身を投げる。まさしく豈図らんや、と膝を打ちたいところではあるが、然れども、私の手は空を切った。私の胸中には、カタルシスに先立ち、拒否感が到来したのである。それは脚本の強引さに対してのものであった。肝心要のリヴェール夫人の動機がどうにも惜しい。それは決してなおざりにされてはいない。しかし、いかんせん彼女へのフォーカスがあまりに短く弱いために、前もって自然に印象づけられているのではなく、事後的な了解を強いるのである。動機に直接つながる機微は、真相の解明の直前に仄暗く映じる程度である。また、長い間、かつてサロメを一方的に愛していたヴァンサン[ii]に密告者の白羽の矢が立っていたのであるが、息子の疑惑が晴れた際の彼女の振る舞いは、どう考えてみても釈然としない。意外性ありきの作為性が滲んでいる、とは言い過ぎかもしれないが、この手の脚本に、私は白々しさを、品の悪さを感じる。

 手放しで褒められない脚本とは対称的に、演出は一級品かと思われる。頗る上品である。とりわけ、画面の色調に目を奪われた。戦争が始まる前のダンス・パーティーを描いたシーンはピエール=オーギュスト・ルノワールの代表作である『ムーラン・ド・ギャレットの舞踏会』を思わせる光の採り方がなされているし、闇を映しては、青の時代におけるパブロ・ピカソにスタイリッシュなフィルターを掛けたような色味である。言わずと知れたジャン=リュック・ゴダールの作品といい、『アデル、ブルーは熱い色』といい、どうやらフランス映画は監督に目の良さを要請するらしい。また、上述した事件のシークエンスは専ら手持ちカメラを用いたモキュメンタリーで撮られており、それも良い効果を上げているかと思う。

 ここまで書いて、私は重要なモチーフを取りこぼしていることに気が付く。「ピアノ」と「生まれ変わり」である。本作では、ほとんど全編を通して、セルゲイ・ラフマニノフの『ピアノ協奏曲第2番』が流れている。これは単なる BGM のみにあらず、本作の中心的なモチーフでもある。サロメの兄であるサロモンはラフマニノフを慕っており、サロメは彼の死後、この曲を弾くピアニストのエリック・ベルショーを彼の生まれ変わりと見るのである。また、この「生まれ変わり」は、サロメの父親であり精神科医であるシモンが生前にこだわっていた概念なのである。私がこれまでこのことに触れてこなかった由は、単純至極、このことが作劇にあまり活かされていないためである。いっそ放言するが、ピアノはともかく、生まれ変わりへの言及はお飾りにしかなっていない。しかつめらしく語られる割には、実際のサロメとベルショーの交歓があまりに希薄なのである。ベルショーの演奏を聴くサロメの一時的な思い込みとして表れているに過ぎないのではないかしら。エンドロールの直前では、生まれ変わりの連想としてプラトンの「球体人間論」が取り上げられているが、これはいかにも取ってつけたようであり、更に悪いことには、悪趣味なスノビズムが滲んでいる。そこに間テクスト性の援用は何ら見いだせない。[iii]この手の無益な衒学趣味に、私は白々しさを、品の悪さを感じる。なお、このことは先に名前を挙げたゴダールの作品及び『アデル……』においても同じい。どうやらフランス映画は…… いや、ここらでやめにしよう。私もまた、筆が滑ってしまったようである。

 以上が本作をざっと見渡した感想である。脚本が五点中二点、演出が満点、平均を取ったところに衒学趣味を差し引き、最後に色をつけて三コンマ五点、といったところであろうか。ところによっては些か辛口、しかも背伸びした文章になってしまったことは否みがたい。私が筆に未熟なせいである。本稿の読者におかれては、仮に拙文に納得がいかなくても、青っぽいお調子者の所業を見たと思って、微笑されたい。メルスィー、オルヴォワー!

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[i] 過去の物語はサロメが生まれる前の、彼女の両親の馴れ初めから始まる。

[ii] ヴァンサン役のリシャール・アンコニナの演技に注目してほしい。ヴァンサンがサロメを一方的に愛していた期間は病的な偏執狂を、彼女と心を結んでからは頼りがいのある好青年を、明確に、それでいて自然に演じ分けている。二面性のあるキャラクターをこれ程までに見事に演じられる役者は、そうそうお目にかかれないと思う。

[iii] 作中では、シェイクスピアの『ハムレット』にも触れている。こちらは単なるお飾りなのか、それとも効果的であるのか。私が浅学菲才なために判断しかねる。

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