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また郵便受けに憂鬱が届いていた。

どうしようもなくもやもやする夜が定期的に訪れる。頼んでもいないのに、Amazon定期便のようにおおよそ決められた周期で私の元にそれは届けられる。中身や対象が明確なもやもや感であればまだ楽なのだが、大体は漠然としているので簡単には抜け出せない。

お盆休みが明けようとする日曜日の22:14。猛烈な憂鬱感が私を襲っている。今回の憂鬱感の正体は何だろうか。
主成分はいたってシンプル。明日から始まる労働に対する憂鬱である。実はこの感情は小学生の頃から毎年味わっている。そう、夏休み最終日のあれである。明日からまた始まるんだな、単調で自由の対極にあるようなあの生活が。夏休み最終日は毎年そのような絶望感の中、問題集の答えを高速で転写するという手の運動を繰り広げていた。仕事の愚痴をこぼす人に対して、「嫌なら辞めろ」と言いたくなるが、現実はそんなに単純ではなく、何にだって嫌な部分もあれば好きな部分もある。仕事の嫌な部分が好きな部分よりも多くなり、自分を壊してしまうくらいなら退職or転職をすれば良いが、そうではない限りは退職or転職のコストが、現職を嫌う気持ちを相対的に上回り、嫌いなはずの現職を続けてしまう。私の場合、現職はbestではない。betterでもない。言うなればnot bad。直訳すると、偉そうだが”悪くない”。

この”悪くない”で妥協できれば楽なのだろうが、私は昔から理想主義なところがあり、常に自分の理想と現実とを照らし合わせて、自ら積極的に不満を感じにいく性質がある。”余談”だが、私の解釈では完璧主義者と理想主義者は似て非なるものである。テストで例えると、完璧主義者は満点を目指す人のイメージで、理想主義者は数学の問題で自分だけの別解を生み出そうとしたり、自由英作文で高得点を取ることではなく先生を感動させることを志向したりする人のイメージである。完璧主義者には苦悩が多い印象があるが、理想主義者はその比ではない。なぜなら追い求めているゴールが発散的で属人的であることが多いため、他者のアドバイスが活きづらく、結果的に孤独にもがき苦しむしかないという状況に陥りやすいからだ。このようなことを言うと、理想主義者に対する哀れみすら覚えそうだが、意外にも本人は理想を追い求めて苦悩することに酔っており、歪な幸福感を感じている点が、人々が決して理想主義者に寄り添う必要がない理由である。

余談だが、余談は膨らみやすい。何故なら、文脈を無視してもなおその人が言いたくて仕方のない小話を、余談と呼ぶからである。私は”余談だが”という枕詞を置くことで、話が脇道に逸れることを言外に謝りながら、いかにも理想主義者らしく”理想主義者の苦悩”という自己愛に満ちたテーマに花を咲かせてしまった。そうこうしている内に、この文章を書き始めた裏目的を達成できていることに気付き、安堵の表情を浮かべずにはいられない。私は頭の中で鳴り止まないノイズを文章にして排出することで、憂鬱を晴らしたかったのだ。根本的な解決など求めていない。ただ、心晴れやかに明日を迎えたかっただけなのだ。

30分前と今とで酸素の通りがまるで違うことを丁寧に確認し、ゆっくりと目を閉じよう。もう大丈夫。もうノイズは聞こえない。

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