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【めくるめく】続・人は過ち、神は許す
昨日の投稿で、失敗した人を責めることに生産性はない、といいましたが、例外はあります。
その人が悪意・故意をもってその失敗を為したときです。
悪意の人が関与していることを想定してプロセスを構築するのは容易ではありません。もちろんテロ対策とかハッキング対策とかスパイ対策とかでは、悪意の人の関与が想定されたプロセスが必要なのでしょうけれど、そうでなければ、悪意の人の想定はされないでしょう。
悪意・故意に準ずるケースとして、不誠実、ふまじめな人がその失敗を為したときも、責める対象になるだろうと思います。不誠実、ふまじめの程度にもよるかもしれませんが、それを想定してプロセスを構築するのはやはり困難だからです。人のほうを改善せねば再発は防止できませんし、生産性が回復しません。
大学の教養課程で「法学概論」を受講していました。
その講義のことは教授の姓以外はほとんどなにも憶えていないのですが、ひとつだけ憶えていることがあります。
過失と故意との間には、認識ある過失と未必の故意がある。
教授は熊を撃つために森に足を踏み入れたハンターを例に挙げて説明しておられました。
たとえば熊を狙って銃を撃ち、命中したと思って熊のいたと思われるあたりに行ってみたら熊ではなく、その存在に気づいていなかった人に命中していた、という場合。それは過失。
故意というのは、熊をしとめるふりをして人を撃った、という場合。
過失と故意との間にある 認識ある過失 とは、熊を撃とうとしたら向こう側に人がいるのがみえた。危ないなと感じたがまあ当たらんやろと思って熊に向かって引き金を引いたら人に当たってしまった、という場合。
未必の故意は、熊を撃とうとしたら向こう側に人がいるのがみえた。危ないなと感じたがまあ当たってもええわ、と思って熊に向かって引き金を引いたらほんとに人に当たってしまった、という場合。
不誠実とかふまじめに起因する失敗というのは、悪意ではないにせよ純粋な過失ではないという点で、この認識ある過失とか未必の故意に近いかなと思います。
不誠実やふまじめは、神なら許してくれるかもしれませんが、わたしは許しません。