至上の真摯なる鎮魂 映画「あんのこと」河合優実
凄い映画でした。BGMらしいものもほとんどなし。ドキュメンタリー・フィルムかと勘違いしそうなほどのリアリティ。最後の最後で、「救い」のようなシーンがいくつか入ってエンディングになりますが、それ以外は、ほぼただひたすらの絶望。
杏が立ち直っていくプロセスと、それに手を貸す大人たちには、ホッとする場面もあるんですが、それとても、さらなるより深い絶望への助走になってしまうような展開。冒頭からずっと、物凄い緊張感がスクリーンに充満し続けます。ドキドキする自分の鼓動が聞こえそうでした。
杏とそのモデルとなったハナさんが生きたこの世界。この世界は、偶然で出来上がっている。YouTubeの平野啓一郎とマイケル・サンデル教授の対談で、サンデル教授は「大谷翔平の才能と努力は実に素晴らしい。しかし、大谷翔平の成功は偶然の上に成り立っていることを忘れちゃいけない。大谷が20世紀末の日本に生まれたのは偶然以外の何者でもない。もし、大谷がイタリアのルネサンス期に生まれていたら、彼が持って生まれた才能は、彼にこのような成功をもたらすことはなかっただろう」と言っていた。(サンデル教授に聞く「能力主義」の問題点。自己責任論の国・日本への処方箋は? 【マイケル・サンデル×平野啓一郎特別対談】 (youtube.com) 25:30頃)
どの時代に生まれるか、どの国に生まれるか、どんな親のもとに生まれるか、それらは全部ただの偶然だ。大谷翔平があのような人生を送っているのも、杏がこのような人生を送ったのも偶然だ。そして偶然は時に凄絶なまでに残酷だ。
その凄絶な残酷を生きた杏。この杏を演じるのが河合優実。河合優実の演技力については別の記事でも書きましたが(映画「愛なのに」河合優実 変幻自在の演技リズム感|中原直人 (note.com))、この映画では、リミッターを外したデストロイモードの河合優実がいます。河合優実は、6月9日に放送されたテレビ番組「ぼくらの時代」で、「映画で主役を務めるようになって、自分の演技が映画全体に及ぼす影響のようなものを考えながら演技するようになった」と言っていた。この辺りの感覚はジャズのセッションに近いような気もするし、(手前味噌ながら)河合優実は自分の演技の「リズム感」と映画全体のリズム感のアンサンブルを意識しながら、自分の演技の「リズム感」をコントロールして演技しているのだろう。だからこそ、それぞれの役に応じた絶妙の「リズム感」を生み出すことができる。その河合優実が「この映画では、映画全体への影響を意識せずに、一点集中で役に没頭した」と言っていた。
この河合優実の演技が、もう本当に凄い。河合優実の友人で女優の見上愛も「知ってる優実と違いすぎて、3分で観るのをやめたくなった」と言うように(「ぼくらの時代」(6月9日放送)や「あんのこと」公式ホームページでのコメント)、河合優実なんだ、演技なんだってことを全く感じさせない。杏という女性の人生を文字どおり「生きている」。凄いんだろうなぁと予想はしてたが、ほんとうに凄かった。この演技によって観ている側に喚起される感情も、悲しくて涙する、とかそういう次元のものではない。橋の下で佐藤次郎演じる刑事・多々羅に杏が抱きしめられるシーンだったり、ラスト近くで杏が日記を燃やすシーンとか、魂の慟哭ってこういうことを言うのかな、と思わされるような深く重い痛みを感じないではいられない。
河合優実は、ほんとうに頭の良さとセンスの良さを併せ持つ稀有の女優なのではと思わせる。SAMANSAでの樹との対談でも、いつも肩の上辺りにもう1人の「自分」がいて、その「自分」が自分の演技をコントロールしてるというようなことを話していた(俳優 河合優実さん×俳優 樹さん 映画と俳優人生について【ONLY SAMANSA KNOWS】【前編】 (youtube.com))。つまり、彼女は決してシャーマニスティックに役に入り込んで演じているのではなく、緻密な計算と並外れたメタ認知能力によって、この演技を「創り出して」いるのだ(会社勤めの人なら、おっかない社長相手に難しい案件を説明する時に、現に説明している自分を肩の上辺りから見下ろす別の「自分」を持って「話すペースをもう少しゆっくり、声は低めに、手の動きは控えめにしつつ、もっと不遜な目つきの方が自信を伝えられる」なんてメタ認知とそのメタ認知に基づく修正ができるか、そしてその結果、社長に最上の満足を常に与えられるかどうか(ここが一番重要)想像してみてほしい)。
恐ろしい才能だ。
しかし、河合優実の演技を生み出しているのは、決してそのような知的能力だけではない。これもSAMANSAの樹との対談で言っていたが、台本の細部に取り掛かる前に、まずは映画の全体像(制作の背景とか意図とか)を把握するという姿勢からも窺えるように、とにかく映画というものに対しての姿勢が真摯なのだ。
「あんのこと」公式サイトの河合優実のコメントは、彼女のこの真摯さを雄弁に物語っている。
このコメントを読んだだけで、「あんのこと」という映画、そして杏を通じてハナさんという女性の人生に対峙するその真摯さに感動して泣きそうです。橋の下で杏が多々羅に抱き締められるシーンを撮影する前に河合優実が多々羅役の佐藤二郎の手を握って「よろしくお願いします」と言ったというエピソードにも、心から感動しました。
ほんとうに、素晴らしかったです。
(この記事のテーマ「河合優実」とはずれちゃいますが、撮影チームをはじめとするスタッフの姿勢にも感動しました。この映画に出てくる場面は、杏の家族が住んでいる団地だったり、いわゆる町の中華料理屋だったりと決してお洒落だったり華やかだったりする場所ではありません。なのに、なのに、映像がとても美しいんです。これは、撮影チームはじめスタッフが河合優実同様に、杏とハナさんの人生をただ「悲惨な人生」とするのではなく、たしかに杏の生きた人生は残酷なものだったかもしれない、でもいかに残酷な人生であっても「生きたい」という意思を持って生きた杏とハナさんの人生は紛れもなく「美しい人生」だったんだ!という強い肯定の気持ちを持っていたからではないのかな、と感じました。)
鎮魂とは何かということについては、いろいろ考え方があるだろうが、その人が確かに生きてそこにいたことを忘れない、ということは鎮魂の重要な部分のように感じる。そして、死者の魂を鎮めることの本当の意味は生きているこちら側にあるんだろうと思う。そういう意味で、この映画は、杏とそのモデルになった女性、ハナさんへのこの上なく真摯な鎮魂のように感じてしまった。
この映画を見て、わたしに何が出来るのか、何を為すべきなのか、直ちに答えがあるわけではないが、この映画と出会えたこと、杏とハナさんが「生きたい」という強い意思を持って、その人生を確かに生き抜いたこと、そして純粋に偶然でしかない残酷を生きている人が間違いなく今もいることは忘れないでいたい。
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