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【日記】 陶芸という名のもとに

2024年8月16日、東京では台風やら南海トラフやらで、いろいろなことが中止になっていたみたいだが、そんなことはどこ吹く風。この日、私は確実に世俗から外れた。つまりは、益子の大自然に向かい、自然を感じ、温泉を感じ、美味いご飯を感じ、終いには急な大雨も体で感じるくらい、「陶芸」という贅沢なお時間にて、世俗からお暇していた。

台風の影響か、通常運転なのか、ご事情は定かではないが、ありがたいことに先生とマンツーマンで貸し切りたっぷり2時間コース。

鳥や蝉の声が緑から聞こえ、たまに雨が降り注ぎ、室内は雑音一つない綺麗な空間。

こんな贅沢な2時間を過ごせることに本当に感謝。

なぜわざわざお盆も佳境で台風直撃するかもっていうタイミングで訪れたのか。

私は器が好きだ。民藝も好き。直感で見る潔さや衝撃と感動の繰り返しが楽しくて仕方ない。

ただ、それは過程を体感せず、ただ物を見て、使ってみたい、かっこいい、と安直に思っていた。それはなんか、器に対してどこか失礼のような気がして、自分で作る過程を体感しないと本当の使ってみたい、かっこいい、が出てこないのではないか。

まずは自分で作ってみて、話はそこからなんじゃないの。という私なりの現代に対する反逆精神みたいなものが、台風の中、軽自動車を突き動かした最大の要因だと思う。

それと同時に、皆さま忙しさ満点のお盆真っ只中が誕生日である私は、祝われる文化がそもそもなく育ってきた。そのため、誕生日という概念はプライオリティとしては非常に低い。年齢すらあまりどうでも良くなってきている。ただ、今回に至っては意味合いが違う。ついに27歳になったのである。いわば、27クラブなのである。

ジミヘンやカート・コバーン、尾崎も27の代に他界した。音楽に疎い私ですら、27歳とロックの因果関係は知っているくらい有名な話である。

高校、大学くらいから、なんとなく27歳という閻魔大王さまが待ち受けていると脳みそがもうそのモードになってここまで来てしまった。本当は平凡なことしか起きないのに、ノストラダムスの大予言的にそんな過信を自分の中で密かに抱いていた。そして、ついにその年齢を重ねた自分が確かにここにいて、案の定何も起こることなく、ただの日常が待っていただけだった。ただ、この日常を迎えられる過程や地道な頑張りへの猛烈な感動が異様に立ち込めて、どうにかこうにか、ダサくても何でも、ここまで生きてこれた。そんな自分をどうしても褒めちぎりたく、ご褒美(誕プレ)として私は「陶芸」を選んだ。

まずは何を作るか考えたときに、真っ先に思い浮かんだのは、抹茶茶碗。お茶を始めたいと常々思っていたが、道具はそれなりにするし、習うのにもそれなりのお布施と一苦労がある。端的に言えば、敷居が高い。それでもお茶の文化は見習うべきものがあるので、自分の生活の中に取り入れてみたいと思っていたので、お抹茶碗を作ることにした。

いざ、作業に入ると、どうしても綺麗に作ろうって、初手をあまりにも大事にしすぎる自分に、頭では理解していても三つ子の魂百までなんだなって。とはいえ、綺麗に作ろうなんて思っていても、結局のところ、絶対に個性は出てしまう。そういうもの。でも、それが本来の良さだよなと忘れかけていた初心が顔を出して、前向きにしてくれた。

ごく自然に個性は出てしまうのに無理矢理フォーマットに押し込めようとしても、それは不自然な行動であり、自分もこの先、個性が出てしまうことに対しての変なブレーキは要らないんだなって。誰かが喜ぶ個性は飲み放題でいいんだなって。

そんなことを思いながらも先生の言葉巧みな褒め言葉に、我ながらリズムよくロクロを回すことができ、私っぽいお碗が成形できた。あとは割れないことを切に願いながら焼き上がりを待つだけ。

作業場には猫ちゃんもいて、心優しい先生がいて、大自然があり、私好みの静かな空間があり。こんな状況が私一人で堪能していいものだろうかと改めて思った。先生と雑談しながら、猫ちゃんとも触れ合いながら、アトリエの中にあるギャラリーも見学させていただき、とても濃密な2時間だった。

焼成前の人達
作業場に紛れ込む猫ちゃん


作業が始まる前、この2時間、これだけは守ろうとルールを決めていた。

「こだわりなく、自然の流れに任せる。」

このルールは私の現時点で掲げている、一種の人生のゴールに近いようなものでもある。このルールは特に柔軟性という性質に帰属している。その性質は日常生活では決して目立たない手札ではあるが、日常生活においてはとてつもない効果を発揮してくれる、そんな性質のように考えている。逆説的に考えてみると、自分の過信や決めつけ、エゴによるこだわりというものは、一見すると目に見える効果をすぐに感じやすいと思うが、所詮はただのオナニーであり、日常生活においては人間関係、お仕事、趣味、何事においても非常に厄介な存在である。だからこその、柔軟に対応して、自分の血肉にしていく粛々さや淡々とやる姿勢の大事さが見えてくるものである。

とは言え、その柔軟性というものすら、変に意識しすぎることも実はあまりしていない。柔軟性という一つのこだわりであるから、そこに突出しても指示待ち人間でしかないから。ここで言う柔軟性とは、主体性と客観性のバランスが含有量100%の柔軟性という意味合い。

その柔軟性をテーマとしてこの数年は過ごしているが、果たしてそれは自然に対しても間違ってなかったと言えるのかなって。自然の流れに正解も不正解もないから、「柔軟性=自然の流れ」が正解でしかないのではないだろうか。そんな自分への答え合わせとしてもこの陶芸体験を通して確かめたかった。

実際に体験を通して思ったのは、陶器は自然由来の有形物であるからこそ、まずは先生の助言と自分の穏やかさをそのまま土とセッションする。その方が、土を触って、先生に褒められ、やさしい作品が出来上がる。さらに、今後の人生でこの子達を使っていくことを考えると、嫌な色気も感じず心に自然と馴染んで生涯をかけて愛でることができるはずと思った。

自分で作ったものを今後も主に自分が使うわけなので、ということは自ずと大切に使っていく使命をひしひしと感じるてくし、もう既に芽生え始めているのである。その中で、私なりにこの子達の粋な使い方ってものがあるのかなって、現在進行形ingて頭を巡らせている。例えば、お抹茶は当然だが、益子の地酒を入れてみたり、地元の味噌を使ったお味噌汁なんかも最高であるな、とか。

そんな風にして、柔軟に取り掛かった作品はひたすらにいいとしか言えない。いい意味で充満の状態に勝手にさせられる。後悔がまるでない。不満たらたらもなく、充実感しかない。これだ。まさに主体性と客観性の柔軟性。これは間違いなく、いい状態。

その中で特に衝撃だったのが、もはや何の情報がなくてもリスペクトさせていただける心へ自然とシフトすること。柔軟性の性質たる所以がここまで及ぶとは思ってもいなかった。とても嬉しい。

今回のケースだと、陶芸のプロの方々に焦点が当たるのだが、凄い境地でお作りになられているなと素直に思う。仮にそうだとしたら、ただ私の思惑だけで、使ってみたい、かっこいい、と安直に思っていたのは、本当に未熟者だったなと改めて思う。そこには作り手の思いや個性、キャプションがなくても伝わってくる熱意がある。その熱意と自分の直感がミックスされると、とんでもない爆発で私の心はいっぱいになる。

おこがましい話ではあるが、先生を始め、まだお会いしたことがない作り手の方々には、穏健なリスペクトをぜひ胸にしまっておかせてください。そして、いつの日か、またどこかでご縁がありましたら胸から取り出させてください。

また、敢えて付け加えるなら、今後自分で使っていくこの使命を寧ろ進んで責任を果たしたいと強く思う。せっかくなら自分が作り出した器にいろんな経験をさせてあげたい。自分のエゴなのはわかっている。まだ1回しかやってないのに分かるかと、お叱りを受けそうなのだが、これは私なりの初手の作り手として、最大の願いである。

この経験は私の中で何か一つ自然に対する見え方が変わった非常に嬉しい経験だった。そして、柔軟性の自然たる所以を感じ、自分への労い、あるいは作り手さんへのリスペクト。様々な学びを得られ、最高の夏休みの締めくくりであった。台風という理由だけであんなにも人がいない益子も見れなかった。また早く土に触りたい。そんな純水な自分がまだいたなんて、少しはマシかもね。

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