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ルカ・グァダニーノ「チャレンジャーズ」(ジャスティン・クリツケス脚本)

人生はゲーム。まるでテニス。大事なのはリレーションシップ。
相手がいるから自分がいる。自分がいるから相手もいる。手に入れるべきものがあるから闘える。闘えるから生きられる。生きることは闘いだ。適者生存。
ラストセット、タイブレーク。その一球にこれまでとこれからの全てが宿る。叫びと微笑み。ほとばしる汗と交わされる視線。躍動する肉体。解放される人間性。目まぐるしいラリー。剥き出しになった魂と魂の呼応。そして抱擁。
ナイスゲーム。言葉にならない歓喜。
男と男。男と女。女と男。一つのボール。二人のプレイヤー。まさにゲーム。まさにテニス。まさに関係の力学。二つの駆け引き。一つのバランス。理性と野性。冷静と情熱。激しい衝突と溶け合う心。
交わらぬもの同士が一つのフィールドに君臨する決してありえないはずのかけがえのない瞬間を目撃するラスト数十秒。
手を結び、分かち合い、競い合い、合い争い、仲違いし、繋がり合い、そしてまたぶつかり合い、自らが真に己自身となった瞬間に二人は、いや三人はあらためて心から出会う。
男二人史上最高のゲームを目撃する一人の女。ゼンデイヤのまなざしと揺れ動く気持ち、そして言葉にならない絶叫。
誰のものになるのか、どこへ向かうのかわからない彼女の姿が最後の一球で映画を観るものたちと共振する。
このラブゲーム(0 game or love game)の行く末を見守る彼女こそ、この試合の目撃者であり采配を握るゲームチェンジャーでありながら、誰よりも対戦する両者の間で行ったり来たりするボールそのものなのだ。
ゲーム・イズ・ライフ。ラブ・イズ・ゲーム。一球の応酬ごとに行き交う過去と現在。繰り広げられるドラマと因縁。浮かべる微笑み、ただよう余裕。ぶつかる感情。試合に勝って勝負に負けるのか。勝負に勝って試合に負けるのか。
そこに溢れるスポーツの歓び。映画の喜び。あるいは人生の悦び。
ディス・イズ・ジ・エンド。もしかしたら三人は初めから同じものを求めていたのでは?史上最高の試合。ただそれだけ。
試合が意味するものとは?ゲームはただのゲームではない。勝負に生きた以上は勝負の世界が正念場だ。飼い慣らされたペットでもなく扱いきれない獣でもなく。彼ら自身からみなぎる欲、プライド、夢、希望、現実、そして愛。
ありったけの人間性を解放し、魂を剥き出しにして、地位も名誉も取っ払い、打算も計算もなく、今このときのわずかな瞬間に己の全てをさらけ出し、ただひたすらに向き合う相手、一人の人間に対峙する。
怒りや悲しみや楽しみでは表現しきれない超越的ライフ。希望も絶望も関係なく、虚無をも振り払って没頭するこの生命感。
栄光も挫折も成長も獲得も関係なく。すなわち過ぎ去りし思い出を全てその身に宿しながら、今この瞬間に全身全霊打ち抜く一打に懸けるということ。
それゆえに訪れる圧倒的幕引き。人生において訪れるあらゆる不自由とそれゆえに一瞬に全てを引き換えにしてあまりある突き抜けた自由。
愛の作家ルカ・グァダニーノの真骨頂でありその真髄を目撃する131分。
激闘の末、あらゆるものを超越した男女三人を繋ぐ関係の糸は初めから提示されていたことを悟る。
憧れであり欲であり夢であり希望、なにより愛。生粋のアスリートである彼らの他愛のない自愛ゆえの望み。絶対的に崇高で犯されがたいテニスへの挑戦。
愛するとはそのものまるごと他者を受け入れること、そして嘘偽らざる自らを委ねること。
一人はパッションのプレイヤー。もう一人はクールなプレイヤー。そしてあと一人は己の運命に揺れ動くプレイヤー。
ファイヤー&アイス。そして絶世の美女。クールな好男子はその果てに絶叫し、パッショネイトな色男は静かに笑う。そして自らがプレイする夢を断たれた審判者はその間で揺れ動く。
どちらが自らを任せるに足る真のプレイヤーであるかを計る。そのとき彼女は互いを行き交うボール。プレイヤーはそのボールに己の全てを打ちつける。
その勝敗の行方は?ボールという運命の女神はどちらに傾く?問題はそこじゃない。
誰しもが経験するだろう史上空前のゲーム(ロマンス)はコートに彼らが立つ前から始まっている。それが試合。
あそこで、ここで、そしてこのスクリーンで。愛の決闘。あるいは終わらないラブゲーム。すなわち沸騰した愛の均衡が到達する果てることのない歓喜の悦びが銀幕に焼きつくのだ。
それはテニスの試合であり人生というゲーム。ある愛の物語。
きっと誰もが見たことのない興奮の絶頂と愛の臨界点を目撃することになるだろう。

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