イン・ルオシン「シスター 夏のわかれ道」
人生は常に困難をともなう。そしていつだって選択の連続だ。彼女が最後に流す涙の意味をポジティブに捉えたい。それは一人で生きてきた彼女の、彼女だけの本当の幸いに出会う瞬間。
家族。探し求めて、諦めて、ようやく出会った彼。
「姉」として生まれたこと、「娘」であることがどれだけ現在においても彼女たちの人生を狭め、苦労と後悔を与えていることだろうか。
画面で描かれていることから推し量ることしかできないもどかしさと、同時に見ることをためらうような苦しさをできる限り描かないように努めて、映画は人生の困難から良い点を拾おうとしているようだ。
両親に望まれず生まれてきて孤独とともに人生を頑張って生きてきた女性。音信不通だった両親の突然の死。唐突に現れた弟の存在が彼女の人生を変化させていく。
彼女の人生は彼女だけのものだ。観る前は当然のごとく私はそう思っていた。彼女もまた、「私の人生は私だけのもの」だと言い切る。
現代を生きる我々はきっと当たり前に「私」の自由と選択が「私」のものだと思っていることだろう。一人で生きてきたと自らが思うのならなおさらだ。
劇中、彼女が幾度となく流す涙は、怒り、悲しみ、虚しさ、みんな「自分の人生」が弟の存在によって突如として終わりを告げたことに対する絶望と等しかった。
だが涙を流すのは彼女だけではない。伯母が流す涙もまた、この現在に生きる「娘」の一人、「姉」の一人として抑圧されたものが見せるささやかな抵抗なのだ。
そう。「彼女」たちは人生という選択を狭められる社会という構造的な暴力に抗っている。それが生きるということである。
弟の見せる奔放さは彼女の心をかきむしる。戯れを自然と捉えるパク・ソンイルのキャメラは揺れ動き続ける。なぜなら彼女のまなざしは弟との触れ合いで絶えず、怒り、悲しみ、喜び、楽しみ、揺れ動いているからだ。
私は私だけの人生を生きると固く決めた彼女の人生が動き始める。ラストシーンに込められた選択と涙は何を意味するのか。
受け止めきれず、受け入れられず、物語の終わりを良く思わない人もいるかもしれない。
だが終盤の墓参りや、伯父に見せる彼女の弱さは、彼女だけの人生では得られない、彼女だけの幸福がどこにあったのか観客が察するヒントになるだろう。
人は誰もが一人で生きている。しかし人は誰も一人では生きられない。彼女は選択をした。涙とともに。喜びも悲しみもそこにある。
きっと人生を精一杯生きることは涙するまで生きることなのだ。ほろ苦く微笑ましい、雨上がりの空のような作品である。